旅と本
#98|文・藤田雅史
「旅先作家」というものに憧れる。日常生活を離れて旅をし、その土地で見つけたもの、感じたことを言葉として書きとめ、作品としてささやかに記録していく。旅をして、書く。なんて素敵なんだろう。
ただ、その定義は少し曖昧だ。旅の経験を作品のテーマにする旅先作家のパターンがあれば、旅先において原稿を執筆する旅先作家のパターンもある。例えば、前者は沢木耕太郎、後者は温泉宿の川端康成、みたいなイメージ。で、僕がイメージしているのは、旅先で感じたことを旅先で書く、ハイブリッドな第三のタイプである。
旅行中に「ああ、これええなあ」と心が動く。旅行中に「こうしたらええんちゃう?」と考える。旅行中に「ほな、こんなんでどうや」と書いてみる。それはエッセイや掌編小説といった、瞬発力で書ける散文的なものになるだろう。なんなら詩作でも、ちょっとした言葉のスケッチでもいい。もちろん、長期滞在なら大長編だって構わない。とにかく旅することによって生まれたものをその滞在中に作品として仕上げるのだ。うっかり関西弁になってしまったのは、旅先に関西を想定したわけではないが、実際そんなふうに、その土地で耳にした言葉や方言、風俗が作中に登場したりもするだろう。
けして難しい話ではない。そもそも、ものを書くという作業はいつでもどこでも誰にでもできることだ。特にパーソナルデバイスが普及しネット環境も整った今、その「いつでもどこでもできる感」は当たり前のこととして、書くという行為の前提にある。世界中どこにいたって撮った動画をその場で編集してアップロードできるのだ、文章を書くために旅をしたいなんて、そんな憧れ、時代遅れもいいところだ。
やろうと思えばいつでもできる。ずっと、そう思っていた。数年前にサッカー本関連の取材を受けたときも、今後やってみたいことを聞かれて、「どこかに旅をして、サッカーの試合を見て、その夜のうちにホテルでその日の試合をモチーフに短い小説を書く、みたいなことをしてみたいんですよね」的なことを答えた記憶がある。本当に憧れているのだ。旅先作家。
しかし世の常、「いつかやろう」はいつまで経ってもできないもの。「いつか」は、それを「いつか」と思っている限り永遠に「いつか」の未来である(「明日やろうは馬鹿野郎」って、何の台詞だったっけ?)。生計の安定を考えれば、ほいほい旅なんてしていられない。そもそも家を空けたら子どもたちの食事はどうなるのか。ご飯を作るには買い物にだって行かなきゃいけない。洗濯、ゴミ出し、学童や地域クラブの送り迎え、etc.……
日常生活というのは、ひとつの場所にとどまる、ということだ。もちろん、ノマド的な暮らしを実践しながら人生を充実させている人もたくさんいる。でも、あいにく僕の場合、ひとつの場所に定着し目の前の仕事と家族の役割をこなしていくことが、現実の「生活」の姿なのである。
でもそろそろ、その日常生活の先を本格的に考えてもいいのではないか。サッカーのW杯を見ていて思った。「あー、いつかW杯を見に行きたいなー」もまた、このままでは永遠の「いつか」で終わってしまう。
あと4年で上の子が成人を迎える。その2年後には下の子もだ。きっと子どもたちとは別々の暮らしになる。想像するとさみしさでまず胸がいっぱいになってしまうけれど、逆にそれは、いよいよ「いつか」の夢を引き寄せるチャンスだと思いたい。ほんの数年先の話だ。ここで引き寄せなければ、いったい、いつその未来にたどり着けるというのか。
ということで、旅先作家への憧れが最近、日増しに強くなっている。旅をして何かを感じ、思い、考え、それを旅先で書きとめる。作品として仕上げる。それをまとめて本にする。本を売る。売れれば売上が生じる。ん、あれ? そしたら旅行代金、もしかして経費として扱っていいのでは? てか、その経費がどこかからまるごと支給されるなんてこともあり得るのでは? え、それよくない? 最高じゃない? え、もしかして旅の食費とかも経費に含めちゃっていいのかしら?
おっと、夢を見るはずがまた現実なところに戻ってきてしまった。大人の悪い癖である。さ、夢をさらにふくらませるために、最新の地図帳を買いに本屋にでも行ってこよう。もちろん、これも必要経費である。
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BOOK INFORMATION
「本とともにある、なにげない日常」を、ちょっとしたユーモアで切り取る、本にまつわる脱力エッセイ『ちょっと本屋に行ってくる』シリーズの最新刊!『ちょっと本屋に行ってくる。2 ブック・タワーズ・メガシティ』6月13日発売。>>詳しくはこちら
藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。2 ブック・タワーズ・メガシティ』
issuance刊/定価1,870円(税込)
