Essay
整理整頓と本
#36|文・藤田雅史
書庫が完成した。
いや、まだすべての棚に本を並べ終えたわけではないから、完成とはいえないかもしれない。それでも本棚の工事は終わった。ソファも届いた(無事に搬入できた)。窓には新品のブラインドが下がり、本を読みながら音楽を聴くためのWi-Fiスピーカーも買った。時計も、絵も、クッションも買った。今はひたすら、来月のクレジットカードの引き落とし額が怖い。
これだけ気分が浮かれていれば、本を並べるのが楽しくてしょうがない、となりそうなものだけれど、本棚の完成から二週間以上が経過しようとしているのにまだ半分も並べ終えていない。理由は、本の量の問題というよりも、重さと愛着の問題である。
本は重い。こんなに重いとは思わなかった。書庫は三階にあるので、運ぶときは階段を上がらなければいけない。最初はとりあえず本を積み上げて底を両手で支え、てっぺんをあごで抑えるような持ち方でよっこらしょと運んでいたのだけれど、この方法だと一度で二十冊くらいが限度。こんなんじゃいくら時間があっても足りないと気づき、途中から、紙袋より耐久性のある不織布のエコバッグに本を詰めて持ち運ぶことにした。これだと、ひとつのバッグに約十五冊、それを五袋持てば、一回の階段の上り下りで七十から八十冊くらい運べる。おお、このやり方はいい、天才じゃないか自分、と自画自賛して、何度か繰り返してみた。階段を駆け上ったりもしてみた。
筋肉痛になった。
運動不足の身体にはちょうどいいトレーニングなのかもしれないが、何日かに渡って、仕事の合間に持ち運んでは並べ、持ち運んでは並べ、を繰り返した結果、千冊を超えたあたりで膝ががくがくしてやる気が失せた。肩と背中も痛くなった。
もうひとつの愛着の問題というのは、先月書いた並べ方の問題でもある。
僕の並べ方の最終的な結論はこうだ。「文芸を、著者あいうえお順に並べる」。
本の搬入をはじめるときに、まずは好きな本から運び込もうと決めた。そうすると僕にとってはそれは、小説、戯曲、脚本、エッセイといった文芸書で、それをはじめてみると、一冊一冊にランクづけをしたり、好きな作家だけを選別するのは面倒で仕方なく、やはり著者別あいうえお順で並べるのがいちばん自然だった。
手当たり次第に袋に詰めて運んだ本を、この列は「あ行」、この列は「は行」と決めて配置していく。「おお、松本清張の隣に町田康!なんか絶妙な組合せだ!」「宮沢章夫と向田邦子!このタッグはいい!」「穂村弘と堀江敏幸の並びとか、なんかオシャレ本棚な気がする!」「倉本聰と黒岩重吾とは渋いね!」思わぬ組合せの並びが新鮮で、いちいち楽しい。大量の山田詠美、山崎豊子、山崎ナオコーラが並ぶ列は「山脈エリア」と勝手に名づけた。湯本香樹実『夏の庭』の隣に横溝正史『獄門島』とか、コントラストが激し過ぎて目眩がしそうだ。
で、そんな感じで並べていくうちに、気に入った作家の文芸書が約千冊、本棚に収まって、とりあえずお腹いっぱい、という感じになった。棚はまだまだスペースが空いているし、運ぶべき本も階下に山積みなのだけれど(なんなら実家にまだたっぷり残っているけれど)、背中も肩も痛いし、このへんでちょっと休憩しましょ、となっている。それに、好きな本ばかりが並ぶ棚に、けっこうどうでもいい本、むしろ並べるのが恥ずかしいような本が今後侵入してきて、自己満足上の美観を損ねるのが嫌だな、という気持ちもある。あんなに渇望した本棚なのに、こんなに早くも「本をしまいたくなくなっている」なんて。人間の心は複雑だ。
というわけで、本を並び終えるという意味ではまだまだ書庫は未完成ではあるけれど、とりあえず我が家にずっとあった文芸の本が「あ」から「わ」まで、今、目の前に並んでいる。かなりきれいに並んでいる。
ソファに横になり、それを眺めながら気づいた。僕はこれまで、まともに本を整理整頓をしたことがなかった。本を買って読んだらそこらへんに積み上げ、なんとなくそのへんの棚に適当に並べ、ときどき好きな作家の本だけまとめ、蔵書の一部分しか見ることがなかった。今、その全体を俯瞰できるような状態になってはじめて、ああ、整理整頓っていいなあ、と感じている。
整理整頓をすると何がいいか。
まず、当たり前だが探しやすいし、見つけやすい。「あの本どこだったかなー」と考えたり困ったりイライラしたりするストレスから解放されるだけで気持ちはかなりスッキリする。自分の好み、趣味嗜好が明確に、体系的に把握できるのも嬉しい。自分のためだけの自分好みのセレクトショップが開店したようなものだ。それから、本と本の比較が容易にできるのもいい。同じようなテーマやモチーフの複数の作家の本を比べてみたり、ひとりの作家の今昔を比べてみたり。整理整頓の利点はまだある。同じ本を何冊も買うリスクを減らせる。並べてみて分かったが、だぶっている本が予想以上に多かった。三冊持ってる本もあった。
そして何より整理整頓の最大の利点は、自分がこれまで読んだ本を、まるで地図や景色を見るように一望できる、ということに尽きる。本棚を見つめることは、自分を見つめることだと気づいた。内容は記憶になくても、目の前の本の一冊、一章、一行、一句が、きっと精神的な意味での血肉となって自分を作っているんだろう、と、芝居がかっていてカビくさい表現かもしれないけれど、本当に、自分を改めて知るような気持ちになるのだ。
さて、これからまた夏にかけてゆっくりと本を運び込み、そして書庫を完成させていこうと思う。
今、ひとつ気になっているのは日当たりだ。窓から遠い浅田次郎は薄暗く陰気で、窓辺の綿矢りさは春の柔らかな日差しを浴びて背表紙が眩しく光り輝いている。なんか不公平じゃないか。これじゃ浅田先生が可哀想だ。と不憫に思ったり、いや、でもこれ、このままだと夏の直射日光で大切な綿矢りさが日焼けしちゃうんじゃないかと心配になったり。どうでもいいかもしれないけれど、どうでもいいものをどうでもいいとは言い切れないのが、愛着の問題なのです。
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