Essay
年齢と本
#93|文・藤田雅史
できれば読みたくない本、というものがある。
興味のないジャンルだとか、内容がイマイチだとか、波長が合わないとか、そういうことではない。興味のあるジャンルの、めちゃくちゃ面白い本であっても、「できたら読みたくない」と思ってしまう本がある。
そういう本は、最初からわかっていて忌避することもあるけれど、たいていは読んでみないと気づかない。むしろ、読み終わって感動し、大いなる満足感に包まれたからこそ、その「読みたくなさ」を知るという、よくわからない事態に陥ることが多い。
いやー、いい本だった。素晴らしいわー。よかったわー。いい本に巡り会えたわー。そんな満ち足りた幸せ気分で、巻末のページをめくる。あるいは、読むときに外していた表紙カバーを本体にかけ直し、折り目になっている袖の部分に目をやる。そして、気づく。
著者が、同い年だった。
地味にズキッとくる。グサッとくる。ああ、同い年の人がこんなに面白いものを書くのか。同い年の人が、こんなに素晴らしい頭脳と才能を持っているのか。思わなくていいことを勝手に思って、勝手に傷ついてしまうのである。
ピンポイントで同い年の場合だけとは限らない。前後ふたつ、みっつくらいの「同世代」というだけでも胸は軋む。同じ中学に通っていたくらい、の感覚。年上なら、まだ多少、傷は浅い。年下だと傷は深い。そういう自意識のまどろっこしさが、本当に嫌になる。
おととい、ひと月くらいかけてじっくり読んでいた現代史の本を、ようやく読み終えた。ワンテーマを深く考察する類いの本ではなくあくまで通史的な本だったし、まだ読んだことのない著者の本だったので、「どんな人が書いた本か」はあまり気にせず読んでいた。
読みながら、僕は勝手に、語り手として「眼鏡をかけた白髪のおじいちゃん」をイメージしていた。内容は戦後史だ。太平洋戦争終結直後から始まり、昭和の貧しい時代、高度成長期、そして平成、令和へと、過ぎし時代が語られる。おそらく著者は戦争を知っている、なんなら戦場を実際に経験した、そういう人物だと思い込んでいた。その人生の背景こそが語りのリアリティであり、この本の説得力であり、だからこそこういうものが書けるのだ――そう思い込んでいた。
あとがきを読んでいるとき、ある一文で目が止まった。そこには、阪神大震災のときに中学3年生だった、という記述があった。え? 阪神大震災? 1995年ですよね? 僕……そんとき中学2年生でしたけど。すぐにページをめくった。著者プロフィールを見た。ひとつ上。完全に同世代だった。
同い年のスポーツ選手が活躍しても、同い年のビジネスマンが大成功を収めて億万長者になっても、さして嫉妬することはない。でも、ものを書く同世代の人が素晴らしい仕事を成し遂げたとき、うわ、と心がのけぞってしまう。自分と比較して、思いっきり差を見せつけられた気になってしまう。(気になってしまうんじゃなくて、事実、そうなのだが。)
こんなのは若いうちだけかと思っていたけれど、中年になってもなお、「横の比較」から生まれる嫉妬やコンプレックスの疼きみたいなものは消えないらしい。これ、もしかして還暦になっても、死ぬ間際になっても、永遠になくならないんじゃないか。そんな気がしてきた。「同い年の人がこんだけ頑張っているんだから、自分も!」と、そういう発想をすればいいのだろう。でもなかなか、揺らいで凹んだ自己評価を、すぐにポジティブに切り替えるのは難しい。
ちなみに僕の生まれは1980年。今村夏子、辻村深月、山内マリコの素晴らしい仕事を、本屋で素直な気持ちで手に取るのに、やはりまだ抵抗がある。ぐすん。
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BOOK INFORMATION
「本とともにある、なにげない日常」を、ちょっとしたユーモアで切り取る、本にまつわる脱力エッセイ『ちょっと本屋に行ってくる』シリーズの最新刊!『ちょっと本屋に行ってくる。2 ブック・タワーズ・メガシティ』6月13日発売。>>詳しくはこちら
藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。2 ブック・タワーズ・メガシティ』
issuance刊/定価1,870円(税込)
