Essay
生きる力と本
#25|文・藤田雅史
緩んでいる、のか。それとも、元に戻っている、のか。
これを書いている時点で、非常事態宣言の全面解除から約10日。最近になってからクラスターが発生した地域があれば、いまだに感染者がゼロの地域もあり、「コロナ禍」に対する地域毎の温度差は様々である。普段あまりテレビのニュースを見ないので世の中が「平均的に」どうなっているのかよく知らないが、自分の生活圏では、だいぶ人がおもてに出てきた、という印象だ。
場所によって、人によって、自粛や警戒の度合いや予防への意識はかなり異なる。戦時中、空襲に怯える都市と戦闘機が素通りしていく田舎町では生活がまったく違っただろうし、現在だって災害が起こりやすい地域とそうでない地域では防災意識にかなり差があるだろう。目に見えないウイルスを相手にしている今、「皆さん必ずこうしなければなりません」と、自粛ラインを全国的に統一するのはいささか無理がある。にぎわいを取り戻したショッピングセンターの光景を見て、「緩んでいる」と危機感を募らせるか、「元に戻った」と安心するかは、その人の感覚次第である。
僕の住んでいる町は、大都市ではないが、かといって田舎町というほど小さくもない、中途半端なサイズ感の地方都市だ。それゆえ、コロナは怖いけど、でもそれほど怖がらなくていい気もする、という、どっちつかずな、まわりをキョロキョロ見渡して、自分も右にならっておけば大丈夫かな、という雰囲気でみんな生活しているように見える。
◇
3月の後半から4月、そして5月と、「自粛」という名の強制自宅収容みたいな状況下、読みたい本があればその度に自宅や職場でネット注文を繰り返していたが、いい加減、本屋に行って思う存分本を手にとって本を選びたくなった。新刊のチェックもしたいし、立ち読みもしたい。ムズムズする。
そこで、大都市を除く地方の大部分の非常事態宣言が解除された直後の週末、「もういいよね」「うん、もういいんじゃないかな」「大丈夫大丈夫」と自分で自分に語りかけながら車を駆って、県下最大規模の書店に馳せ参じた。
運転しながら久しぶりに気分が高揚した。繁華街の並木道を通り、店が近づくにつれ、赤信号がもどかしく感じるほどだった。頭の中では店内の光景を思い浮かべた。新刊の棚のラインナップが、最後に足を踏み入れた2ヶ月前とがらりと一変し、見たこともない装丁に彩られたキラキラとした新鮮な出会いがたくさん待っている、そんなイメージだった。おそらくこれまでの抑圧の反動で、大量に買い込んでしまうだろう。普段は、3,000円買わないと駐車料金が1時間無料にならないし…などとケチくさいことを考えているが、今日はそれを気にする必要などない。いっぱい買う。買わなくたって、たかが数百円、入場料だと考えればいい。
そんなことを思いながら地下駐車場の坂を下りた。やはりまだみんな自粛しているからだろう、駐車場はものすごく空いていて、いつもは奪い合いになる一番便利な場所にスムーズに車を駐められた。ラッキー!何かこう、「思う存分、久しぶりの本屋を満喫しなよ」と幸運の女神に背中を押されているような気がした。駐車券を胸ポケットにしまい、財布とスマホだけつかんで、(忘れちゃいけない、ちゃんとマスクをして、)車を降りた。ところが。
やってなかった。
駐車場ががら空きのはずである。その書店は土日の営業を自粛していた。こういう「さあいよいよ街に繰り出すぞぞー!」的な、脳みそが単純にできている馬鹿どもが集結し、店内が三密になることを警戒したのだろう。お店の、実に賢明な判断である。よく見れば駐車場の入り口に「営業時間変更と臨時休業のお知らせ」と、ちゃんと貼り紙がしてあった。
◇
それから1週間以上が過ぎ、その間に何度か別の書店に行った。古本屋にも行った。
どの店も入り口付近には消毒スプレーが用意してあり、マスクをして入店せよソーシャルディスタンスを確保せよと注意喚起している。本はどうしたって指先で触れるものだから、ウイルスを媒介しやすい。中には、「15分以内に退店せよ」「立ち読みはするな」とエンドレスのアナウンスを流している店もある。
ただそうは言われても、本屋に足を運ぶのは、実際に手にとって本の手触りを確かめ、装丁を見つめ、ページをめくり中身の相性を確かめ、じっくりとそういう、濃厚接触的「行為」を繰り返して本を買うためである。それができないなら、はっきり言って本屋は必要ない。ネット注文で十分だ。だからとても15分では店を出られない。ページをめくらないわけにいかない。
今、本屋に出かけて、本をじっくり選んで買う行為は非常識だろうか?
「非常識だ」「自粛しろ」「そういうやつがいるからダメなんだ」と言いたい人もいれば、「本屋ぐらいべつにいいじゃん」「もうそこまで気にしなくてよくない?」と考える人もいるだろう。「本を買いに来る客がいなくなれば本屋がつぶれる」ということについても、「仕方なし!」と冷たく断じる人がいれば、「少しでも売上に貢献したい」とむしろ以前より積極的に足を運ぶ人もいる。店内には、マスクをしている人も、していない人もいる。消毒スプレーの前で立ち止まる人も、立ち止まらない人も。
想定外のことが起こったとき、これまで経験のない危機に瀕したとき、何が正しいかは誰にも分からない。「ステイホーム」「不要不急の外出は自粛」の建前を大切にする人がいれば、反対に「でもこのくらいはいいでしょ」の本音で動く人もいる。自分の意見などそもそもないからとりあえず多数派に従うという人もいるし、自分の見たものしか信じないタイプの人もいる。
結局、どう行動すればいいかは、自分で考えて、自分で決めるしかないのだ。とはいえ、自分ひとりの頭で思いつくことには限度がある。僕は再び本屋に通いはじめた自分が、「緩んでいる」のか「元に戻った」のか、よく分からない。
本を読むことは、誰かの思うこと、考えること、知っていることを、自分のものにできる数少ない方法のひとつだ。人間同士の対面の機会が失われている今、本を読むことは「楽しいひととき」以上の価値を持つ。いろんな本を読めば、いろんなことが蓄積される。たくさんの本を読めば、たくさんの考えに触れられる。いろんな考えの中から自分自身で適切なものを選べること、それはきっと、今の時代、リアルな「生きる力」そのものだろう。本を読むことを習慣にしている人は、少なくとも、「正しさはひとつの考えに固執することではない」と理解できている。
そんなふうに自分用の言い訳を考えながら、マスクをして、今日も本屋に向かう。マスク、と書いてふと気づく。アベノマスクがまだ届かない。
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