Essay
同じ名字と本
#26|文・藤田雅史
僕の名字は、「藤田」だ。全国の名字を集計したとあるウェブサイトによると、全国第34位、およそ374,000人が名乗っているという。(33位は長谷川さん、35位は後藤さんである。)
同じ名字の人がいつも気になる。佐藤さんや鈴木さん、高橋さんクラスになるとそんなことはないかもしれないが、藤田程度だと、けっこう気になる。小学校から高校まで、クラスに同じ「藤田」がいたことが一回だけあった。その一年間、僕は僕じゃない藤田くんのことがすごく気になっていた。藤田同士、仲良くしたい。藤田トークで盛り上がりたい。共感したい。でも一緒にされるのはいやだ。比べられたくない。いや違う、比べられたい。そして比べられるならほんの少し自分が上に立ちたい。そんな微妙な感情が胸に渦巻いていたのを覚えている。ちなみに僕じゃない藤田くんは野球が上手くて、いい人だった。ちょっと悔しかった。
父が見るテレビのサスペンスドラマに登場する、藤田まことが子どものときから気になっていた。巨人の監督は長嶋さんより藤田元司派である。日本マクドナルドの経営者藤田田を知ったとき、何の間違いかと思った。誤植ではないと知って驚愕した。負けた、と思った。画家・藤田嗣治に憧れる。彼の場合はアルファベット表記が「FUJITA」ではなく「FOUJITA」だ。かっこいい。ジュビロ磐田の藤田俊哉、芸能人の藤田ニコルと、連綿と続く(僕の中での)藤田の系譜があり、そして最近は、騎手の藤田菜七子が熱い。
で、作家である。
今年の1月に亡くなった藤田宜永の本を、この春にはじめて一冊買い、それから最近、少しずつ買い足して読んでいる。これまで存在は知っていたけれど一冊も読んでいない、その理由は、同級生の藤田くんのときの気持ちに似ている。妙な自意識だ。藤沢周も藤原伊織も迷いなく手に取れるが、藤田宜永だけは手に取れなかった。(知らずに、小池真理子の本はけっこう読んでいる。ふたりが夫婦だと、訃報に接してはじめて知って驚いた。)
最近文庫で出て平積みになっていた『奈緒と私の楽園』からはじまり、『通夜の情事』『愛の領分』『空が割れる』と読み進め、今は『恋愛事情』を読んでいる。堂々と男女の陰影を描いて、平易な文体の中に小説らしい気取りがあるのが素敵だ。軽井沢がよく舞台になるが、僕も軽井沢にはけっこう馴染みがあるので、親近感がわく。
ここまで読んだ「藤田作品」の多くは、それなりにいい年になった男女の恋愛の物語だ。これから僕が踏み込む40代、そして50代、こういう場面が人生に待ち受けているかもしれない、と思うと、藤田先生に教えを請うているような気にもなる。本を集めはじめると、なんだか嬉しくなった。好きな作家がひとり増えて、そしてその人は同じ藤田。もうその時点で何かを(勝手に)共有できている。(勝手に)シンパシーのようなものを感じている。
さびしいのは、もう新しい作品を読めないことだ。いつか、藤田先生の本のすぐそばに、自分の本を並べられる日が来たらいいな、と夢見ることにする。ペンネームなんて使わない。これから誰かの婿になる予定もない。
(あ、元騎手の藤田伸二を忘れてた。実は著書多数。)
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※参考文献 名字由来net