Essay
就寝と本
#28|文・藤田雅史
枕元にいつも置いておく本がある。
何のために置いておくかというと、読むためというよりも眠るため、正確には、眠りにつくためである。さてそろそろ寝よう、と布団にもぐって枕元の灯りをつけ、本を手にとる。えーと、昨日はどこまで読んだんだっけ。ページをぺらぺらめくり、あ、このへんだ、と思い出して読みはじめる。すると10分も経たぬうち、いつのまにか寝ている。そういう本だ。
本を睡眠導入剤として活用している人は少なくないと思う。その日の体調や疲れ具合など、コンディションによっては、いつも確実に眠れる保証があるわけではないが、薬と違って副作用の心配はないし、習慣化すれば、まあだいたい、読んでいるうちに自然に眠れるようになる。ほんの数行で眠りに落ちる場合もある。
こういうとき、小難しい本や読むのが億劫に感じられそうな分厚い本がいいと思われがちだけれど、実は違う。どちらかというと、頭を酷使しないと理解できないような内容より、とりあえずは、何も考えずともするっと頭に入ってくる内容の方がいい。いきなり読むことに躓くと、読書そのものに嫌気がさして逆効果だ。分厚い本は横になった姿勢で読むとき腕が疲れるので、読むという動作自体にストレスが生じてリラックスできない。世の中のありとあらゆる「快眠アイテム」の宣伝文句と同じように、リラックス、そしてストレスフリーが大事である。
小説は適さない。読みづらい昔の文体で書かれた文豪の作品とか、登場人物の名前が長すぎて多すぎて覚えきれないロシア文学とか、段落を改めずに風景描写に三ページも費やす翻訳小説とか、いかにも退屈しそうだが、物語性が強いものは、万が一、その世界にはまってしまうと、最後まで読みたくなる危険性がある。謎は知りたくなり、事件は解決したくなる。だからミステリーやサスペンスも避けたほうがいい。ついでに言うと短編小説もだめだ。読みはじめた時点で「あと十数ページ」とかだと、「どうせなら読み切ってしまおう」という欲求が湧いてくる。とにかく、神経を活性化させてはいけない。読み進める意欲はいらない。
ほどよく本の世界に入り込めて、入り込んでいるうちに気づけば手から落ちている本、そういう本こそ、心地よく眠るためには最適だ。最近、ちょうどいいのを見つけた。著名な学者の書いた日本の近現代史の入門書。200ページほどの新書だから重くなく、(もしも仰向けで読み進めるうちに寝て)本が顔の上に落ちてきても被害は少ない。
歴史の本は、ある程度そこに書かれていることが事前にわかっている、というのがミソである。特に近現代史の場合は基本的に明確な史実をなぞるから、「卑弥呼なんていなかった!」「信長は生きていた!」「上杉謙信は女だった!」みたいな解釈の自由度や創作性・物語性でドラマチックに盛り上がることがなく、基本、中身のテンションが平坦だ。“少々新しい知識を織り交ぜながら、でもだいたいはすでに知っていることをなぞるだけ”なのが、「そろそろ寝よう」の気分にちょうどいい。入門書なので、好奇心を刺激し過ぎないのもちょうどいい。(これが歴史物語だったり、ディープなルポルタージュだったり、「衝撃の事実!」みたいな帯が巻かれた本ではだめだ。広く浅くの入門書だからこそよいのだ。)
そうそう、そうそう、あーそうだったんだ、そうそう、そうそう、へー、そうなんだねー、そうそう、そうそう……すでにある程度知っていることの羅列は、学校の退屈な授業と同じように睡眠欲に作用する。そうそう、そうなんだね、そうそう、そうそう、そうそう……自然と瞼が重くなる。満州事変について読んでいるうちに、リットン調査団のあたりで記憶がなくなる。夢の中で、南満州鉄道の線路脇を歩いている。松岡洋右と一緒に国際連盟から脱退している。
そんな、入眠のための本や映画のストックがいくつかある。いつまで経っても最後まで読み終わらない本、最後まで観終わらない映画。もう、結末なんてどうでもいい。映画にいたっては、映画館で観て寝て、レンタルDVDで観て寝て、Amazonプライムで観て寝た。もう僕にとって、眠るためだけにしかその映画は存在しない。そういった本や映画をぜひここで紹介したいのだけれど、まさか自分が精魂こめて書いた本が睡眠導入剤として紹介されていると知ったら、作家は悲しむだろう。こんな小さなエッセイ記事でも、いつ誰が検索で引っかけてページを訪れるかわからない。敵はつくりたくない。
と、ここまでこの原稿を読み進めるまでの間に、電気点けっぱのままでスマホをシーツの上に落とした人もいるだろうか。その人はきっと72時間くらい寝ていなかったのだろう、と思いたい。おやすみなさい。よい夢を。
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