Essay
心の余裕と本
#30|文・藤田雅史
毎日、エッセイをひとつ読むことにした。朝風呂、スタバ、事務所、定食屋、夜寝る前、とにかくいつでもどこでもいいから、その日一日のうちに一編のエッセイに必ず目を通す。読み終わったらiPhoneを手にとり、日記スタイルのメモアプリに、誰のなんというタイトルを読んだか手早く記録する。あ、いい文章だな、とか、これ面白いな、と感じたら、タイトルの後にそのことを短く書きつける。
そんな習慣を自分に課したのは八月のはじめの暑い頃だった。そしていよいよ暖房がないと朝晩の冷え込みが厳しいほどに秋は深まり、その習慣はいまだに続いている。
毎年、光村図書から出版されている『ベスト・エッセイ』(日本文藝家協会編)はこの習慣にぴったりだ。今年発売された2020年版は、77人の作家や著名人のエッセイが収録されている。一編がだいたい二見開き、多くて三見開き程度なので、ほんの数分で、すっと読み終わる。
習慣、という言葉が苦手だ。子どもの頃から、学校のテストの点数はよくても、毎日コツコツと決まった時間机に向かうようなタイプではなかった。夏休みの宿題はラスト一日が勝負で、いつも新学期の朝に苦しむ。勉強だけでなく何でもそうだった。好きなものを見つけるとすぐ夢中になるけれど、飽きるのも早い。情熱をコントロールすることが苦手なのだろう。目の前に現れるハードルは、乗り越える前に避けたり、引き返したりするタイプだ。
大人になっても、何をするにつけ三日坊主が常だった。日記、筋トレ、ウォーキング、糖質ダイエット、英会話テキスト、ギター教本……。「あ、いい感じいい感じ」と思えている間はいいのだけれど、「なんかやりたくないな」「きついな」「べつに筋肉とかなくていいんじゃないか」「現在完了形とかそもそも日本人に合わない」「丸ごとバナナのチョコのやつ食べたい」「バレーコードが上手に鳴らせないのは指が短いせいだ」とか思いはじめると、なぜか都合よく仕事が忙しくなったり、他に大事なことができたりして、そのまま習慣らしきものは途絶え、それは現在進行形から過去形へと移り変わる。
だからといって、習慣の効力を知らないわけじゃない。むしろ、何年も同じことを継続していけば目の前の小さな小さな種がどんな大きな葉を広げ花を咲かせるだろうと、「習慣力」に対して、畏怖、畏敬、とにかく手を合わせて見上げる思いだ。英単語を1日10個覚えれば、1年で3,650語である。10年で36,500語。そんなの、習慣をつければ上達するに決まっている。わかってる。でも、それがわかっていてできないところに、自分という人間の限界を感じ続けてきた。
僕のような人間は、言い訳が得意だ。目の前に「やりたい習慣」があっても、それが快いものではなくなった途端に、「あの仕事をまず片付けてからにしよう」「頼まれていたあれやらなくちゃ」「やばい、納期の時間がない」「妻の意味不明の不機嫌にムカついて今日はそんな気分になれない」と言い訳が自動的に天から降ってくる。「やりたくない」と「余裕のない暮らし」が結びつくと、習慣など一枚の紙切れのように風に吹かれてあっけなくどこかへ飛んで行ってしまう。
三日坊主はたやすい。でもいい加減、まもなく不惑の四十になろうとしているのだから、惑わず、心に余裕を。何か、自分でも続けられる習慣を。何があっても乱れぬ心を。それが、この「一日一編のエッセイを読む」ということを自分に課した理由である。せめて、このくらいならできるんじゃないか。
というわけで三ヶ月。
一日も欠かしていないという事実に、自分で少し驚いている。一日くらいは忙しくてサボったりしそうなものだが、続いている。やればできるじゃん。心の余裕、実はあるじゃん。
それに、「続ける」ことの満足感だけじゃない、「読む」ことで満たされていく感覚もある。自分という風船に、毎日少しずつ空気を吹き込んで、膨らませているような。
「この人はこのテーマでこんなふうに書くんだ」「こういう書き出しは潔いな」「素っ気ない文章だけどすごく好きだ」「言い回しが絶妙」「ああ、こんなに短い文章なのにエンターテイメントの要素が詰まっている!」「そうか、エッセイもサスペンスにすればいいんだ」
ありきたりな言葉でいえば、世界が広がる、ということか。ファッションや服が好きな人が、雑誌の街角スナップを眺めて学ぶ、そんな感覚に近いかもしれない。書く、ということに携わる人間にとって、この「一日一編のエッセイを読む習慣」というのは、毎朝、鏡の前で自分を見つめることに似ている。そんな姿(文章)で外に出ていいの? ちゃんと自分で自分をチェックしなさい、顔を洗って出直しなさい、もっと合う服(言葉)を選び直しなさいと、人生の先輩に教え諭してもらっている感じがする。
さて、今日も一編を読み終わり、この『ベスト・エッセイ2020』は残すところあと一編である。夏からずっと続いているこの習慣はあと一日で終わる。
明後日からどうしよう。
さかのぼって、2019年版を買うか。それともまったく別のエッセイ集を買うか。あるいはこの2020年版をもう一度読み直すか。いやさすがに読み直しは途中で飽きそうな気がする。とりあえず2019年版を買っておくか。でも今年のものが発行されているのに去年のものが今も本屋に並んでいるとは限らない。行ったらなかった、ということも大いにありうる。とりあえず早く決めないと、明日で習慣が途切れてしまう。ん、それより今日明日は本屋に買いに行く暇がないぞ。焦る。どうしよう。今すぐ決めなきゃ。Amazonのプライムお急ぎ便でポチるしかないか。翌日配達って、何時くらいまでに買えばいいんだっけ。急いでブラウザを開く。いや、その前にやらなきゃいけない仕事があってそれどころじゃない。
あれ? いつのまにか心の余裕がなくなっている。
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