Essay
本以外のものと本
#33|文・藤田雅史
25歳のときに、東京から生まれ故郷の町に帰ってきた。以来15年、ずっと通い詰めているチェーンの大型書店がある。
自宅からも仕事場からも車で10分ほど。よほど長居をしなければ駐車料金はかからないし、売り場面積がそれなりに大きいので、何も買わずに店を出たとしても、店員さんの視線が気になるということもない。本を探す目的だけでなく、ちょっとした時間調整とか、ひまつぶしのために訪れることも多い。
年末、そういや「Number」のマラドーナ特集号が出てたからいちおう買っとかなくちゃ、ついでに正月休みに読む本を何冊か買い込もう、と、冬休みに入ったばかりの子どもたちを引き連れてその書店に出かけた。先に子どもを児童書コーナーに放ち本を選ばせながら、付近をうろうろしていて、ふと、懐かしいものが目についた。ダイヤモンドゲーム。小さいときに好きだったボードゲームだ。店内の目立つ場所に設置された平積み用の台が、まるごとボードゲームコーナーになっている。当時と変わらないブルーの紙箱にほっこりするものを感じつつ、なんだか釈然としない気持になった。
確かに、年末年始の「おうち時間」にボードゲームはうってつけだ。見れば他にもオセロや将棋、人生ゲーム、黒ひげ危機一発、ブロックスといった定番の商品や、海外の輸入品らしい英語のパッケージのゲームが並んでいる。なるほど、売れる時期に売れるものを売るというのは商売の鉄則。視線をずらせば、ボードゲームコーナーの隣は数メートルの棚が手帳コーナーになっていた。家計簿や日記帳も並び、新年のカレンダーも吊され、いかにも師走の本屋、という感じだ。冬の風物詩、なんてフレーズがさっと頭を過ぎる。
で、さらにその向こうに視線を送ると、そこはコスメや化粧品、美容にいいサプリみたいなものがずらりと並んでいて、やけに照明の明るい派手な一角になっていた。人気の商品には目立つPOPがけばけばしく貼られ、美肌やらアンチエイジングやらの単語が目に飛び込んでくる。まあ、自分は男なので関係ないし、そのエリアに興味もない。視線を戻すと、児童書コーナーのそばにはお菓子売場があり、スナック菓子やチョコレート、他にも珍しいサイダーなどを売っている。果汁グミは最近どんな味が出てるんだろう、なんて目をこらして、思い直す。あれ? ここ本屋だよな。
そう思いながら店内を歩くと、本以外の売り物がやたらと多い。手帳はわかる。カレンダーも、判子も、文房具もわかる。DVDやCDは本の仲間だ。健康・美容関連のムック本コーナーに美顔器があるのも、百歩譲って子どものファンシー雑貨もわかる。この「issue」だって、「本屋で売っている」ことがコンセプトのひとつになっているアパレル雑貨だ。その感覚はわかる。丸善の文具、ヴィレッジヴァンガードの雑貨、他にもいろんなコンセプトの書店が、本以外のものを取り扱っている。わかる。わかるというか、そういうお店はむしろ好きだ。しかし、書物や読み書き、もっといえば「本を求める人の感覚」とまったく関連性のない、食品や日用品の売場がやけに幅をきかせているのは、いったいどうしたことだろう。
鍋。うーん、鍋か。料理本の近くに並んでいるからさほど不自然さは感じないけれど、本屋に鍋。現実を改めて直視すると悩ましい気持ちになる。電子レンジ。誰だ、本屋でこんなもの買うのは。それだけではない。キャンプ用品、健康枕、メガネ、パワーストーン、輸入ワイン、セラミックヒーター、手ぬぐい、たこ焼き器、加湿器。レトルトカレーにいたっては、棚が一面ごそっと全国津々浦々のレトルトカレーで埋め尽くされている。そのへんのスーパーやカルディよりも品揃えが豊富だ。そしていよいよもって、革靴。まじか。
そう、この書店はいつのまにか、「ライフスタイル提案型」の名の下に、本や雑誌だけでなく日用雑貨や食品を扱うお店へと変化を遂げていたのである。あまりにしょっちゅう通うので、迂闊にも店そのもののスタイルが変わったことに気がつかなかった。思いついたフレーズは「本屋のドンキホーテ化」。それが悪いと言いたいわけじゃない。本が売れない時代だ。売れるものは何でも売ろうという気持ちはわかる。非難するつもりなどさらさらない。むしろこの時代、営業を続けてくれていることに感謝している。でも、寂しい。本が売れない時代といわれはじめてからずいぶんと経つけれど、いつだって本屋に行けばぎっしりと本が詰まっていた。
十数年前の韓流ブームのとき、レンタルDVDショップにいきなり「韓流」「アジアドラマ」の長い棚が何本も登場した。店の売り場面積に変わりはないのだから、新しいジャンルの商品が登場すれば、かわりに別のジャンルの何かが減少することになる。まず真っ先に「邦画」の品揃えが恐ろしく悪くなった。マニアックなタイトルはどんどん消えていった。メジャーだと思っていた阪本順治や竹中直人でさえ借りられなくなった。矢口史靖すらまともに揃ってない。あのときの不安と同じものが胸の内に広がっていく。
現にその書店は、本屋の華である(と僕が勝手に思い込んでいる)「国内小説」の棚が、ひどく貧相になっていた。子どものファンシー雑貨の売場よりも狭い。人気作家の作品であっても最近発売された新刊しか並んでいない。そのかわり「今売れています」みたいな販売効率のよさそうな話題のベストセラーや映画化された原作本だけ、やたらと積まれている。そこには「本を探し、選ぶ楽しみ」が存在しない。そして誰も、そのことを不自然に思わずに買い物を楽しんでいる。本屋が本を売らなくなったということが、そしてそれが当たり前のように受け入れられていることが、やっぱりなんかせつない。(でもそのお店が嫌いなわけじゃないです。今日も新書を一冊買いに行きました。)
ダーウィンはいう。「最後に生き残るのは、最も強いものではない。最も賢いものでもない。それは変化に最もよく適応したものである。」それは、少し寂しい名言だ。
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