Essay
怖い顔と本
#37|文・藤田雅史
そもそも、怖がりだ。
子どものとき、矢追純一のUFO番組を見てトイレに行けなくなった。父親がテレビで刑事ドラマを見ているときは耳を塞いだ。友達の家で読んだ『金田一少年の事件簿』のせいでひとりで家に帰れなくなり、なんなら『名探偵コナン』の、犯人がわかる前に登場するあの真っ黒な犯人像ですら恐ろしかった。ホラー映画は高校生のときに劇場に見に行った『リング』でこりた。サスペンス小説も、ミステリー小説も、正直いうと読んでいるあいだはちょっと怖い。
ただ、そのくせにけっこう事件ものが好きだ。このへん、ミーハーなのかなんなのか、松本清張の『昭和の黒い霧』をはじめとした、未解決事件の「真相はきっとこうだろう」的な話にはすすんで手を伸ばす。凄惨な殺人事件とか、実在の人間のリアルな闇の部分にクローズアップしたような救いのないノンフィクションは基本的にだめだけれど、虚構をブレンドできる余地のあるもの、昔の有名な事件の真相を掘り起こすようなものにはとても興味がある。
なかでも、「三億円事件」と「グリコ森永事件」だ。三億円事件は1968年、グリコ森永事件は1984年に発生し、未解決のまま迷宮入りした。三億円事件は、白バイ警官に扮した犯人が現金輸送車を強奪。グリコ森永事件は「かい人21面相」を名乗る人物が食品会社を恐喝し社会を大きく揺さぶった。このふたつの事件については、フィクション、ノンフィクションあわせてかなりの数の本が出ていて、犯人についてはいろんな説がある。
一橋文哉の『三億円事件』『闇に消えた怪人 グリコ森永事件の真相』は刊行された当時に買って読んだ。まだ十代の、高校生のときだったと思う。怖かった。でもすごく面白かった。以来、事件を題材にドラマ化された作品や、NHKのドキュメンタリーを見るようになった。高村薫の「レディ・ジョーカー」なんて夢中になって読んだ。最高だ。
で、最近。本屋に行ったら、グリコ森永事件の新刊が平台に積まれていた。お、と思った。無条件で買う気になった。でも手が出せなかったのは、その表紙のカバーがあまりにも怖かったからである。
キツネ目の男が怖い。三億円事件のあの白バイ警官に扮装した男のモンタージュ写真はそれほど怖くないのだけど、キツネ目の男だけはどうしても怖い。生理的に受けつけない。ただでさえ怖いのに、そのカバーは、平面的な似顔絵が暗闇の中に潜んでいるかのようにデザインされていて、余計に怖い。真っ暗な家に帰ったら電気をつける前に玄関に出てきそうな感じがする。おおお、想像しただけで背筋が……。手に取りたい、でもこの顔を手に取るのが怖い。指先から不吉なものが染み込んできそうで怖い。普通の大人は平気なのだろうか。キツネ目の男の顔をひょいと手に取れるのだろうか。
装丁というのは面白いものだ、と改めて思う。特に文芸の書籍は本文中の図版やイラストを例外とすれば、原則的に文字でしか成立していないはずなのに、作家ごと、あるいはジャンルごとに、視覚的なイメージがあって、それが作品を一冊の本として成立させる役割を担っている。ホラー小説にはホラーのイメージがあるし、青春小説には爽やかな青春のイメージがある。純粋に本の内容からデザイナーによってイメージされた装丁もあるだろう。販売戦略や、作家のこだわりの場合もあるだろう。アプローチはいろいろだ。
西加奈子の作品を飾る絵は、すごく目をひく。おっ、と思う。大崎善生の「パイロットフィッシュ」や「アジアンタムブルー」の頃の装丁も、透明感のある写真の雰囲気と横に少しつぶれた明朝体の組み合わせが好きだった。西村賢太の装丁は社会の底辺の暗さ、まさに暗渠な雰囲気が特徴的だ。堀江敏幸の、無駄な装飾お断りの感じもいい。これまで何度も、本のジャケ買いをしてきた。いい装丁の本というのは、たいてい、いい本だ。
でも、中身が読みたいのに怖くて手に取れない、というのははじめてである。とはいえもう40歳になったことだし、勇気を出して、この夏、肝試し感覚で買ってみよう。しょせん、カバーだ。買った後ですぐに外してしまえばいいのだ。
ひとつ心配なことがある。まだ買ってないからわからないけれど、もし、カバーを外した表紙がキツネ目の男全面プリントとかだったらどうしよう。持てない。
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