Essay
山ごもりと本
#39|文・藤田雅史
この原稿は、鬱蒼と木々が生い茂る森の中で書いている。森というか山というか、夏休みに訪れたちいさな山荘の中だ。古い建物を取り囲む木々は背が高く、真夏の直射日光とは無縁の場所である。涼しいからエアコンがいらない。落ち着いて原稿を書くのにもってこいの場所なのだ。
山ごもり、と称した夏休みは、三日目である。朝から風呂に浸かり、読書をし、昼寝をし、などと書くと、さぞや優雅な時間をお過ごしのようで、と皮肉や嫌みのひとつでも言われそうだけれど、実際は小学生の子どもをふたり連れての山ごもりなので、「アイス食べたい」「オモチャ屋に行きたい」「ヒマ」「おやつ食べたい」「虫こわい」「ヒマ」「テレビの電波が悪い」「パジャマ出して」「ヒマ」、そのいちいちに相手をしなければならず、ちっとも優雅ではない。「あーもう、だから気をつけて食べろって言ったのに、なんで買ったばっかりの服にアイスこぼすの!?」と、いつもと変わらぬ調子でウェットティッシュで娘のシャツをごしごし拭き、その汚れたウェットティッシュを自分のズボンに落としてぎゃーと悲鳴を上げている。
とはいえ、普段、海の近くで暮らしている身にとって、山の暮らしはやはり非日常。旅、そして山ごもりそのものが新鮮な体験だ。まず気候が違う。気温も湿度も、水道水の冷たさもいつもとは全然違う。山の中腹の斜面に建っている建物だから、買い出しをするにはいちいち山道の上り下りをしなければならない。普段見かけない虫が宙を舞い、足元を這っている。食べ物も違う。初めて入るお店、初めて通る道、初めて会う人……常に刺激にさらされて、子どもたちもずっとテンションが高い。山にこもってのんびり過ごしているようで、その実、けっこう神経を使っている。疲れている。
僕が「なんか、本屋行きたいね」とふと口にしたとき、「行く!」「行きたい!」とその場にいたみんなが乗り気になったのは、ただ退屈しのぎに、というだけではなく、そういう、いつもと違う場所で刺激を受け続けることから、いっとき離れることができる場所が、実は本屋だったのではないか、と、今、その本屋から帰ってきて思うのだ。
本屋までは、山荘から車で下山して15分ほど。町を東西に貫く国道沿いにある。カフェが併設された、きれいで落ち着いた今風の内装の店だけれど、それほど大きくはない。よく商店街のアーケードで見かける大手チェーンじゃない地元の本屋さん、くらいの面積だ。雑誌、旅行書、料理本、地元の歴史や風景に関連する本が比較的充実していて、あとは新刊本や文庫、人文系、コミック、子ども向けの本が最低限揃っている。長期滞在の別荘族の退屈しのぎにぴったりのDVDのレンタルコーナーもある。
店内に一歩足を踏み入れ、本の匂いを嗅いでまず感じた。あー、落ち着く。
なぜだろう、本屋は落ち着く。旅の出発前に「山ごもり用に本を用意しておこう」と買って持ってきたのと同じ本が、新刊本の平台で積み重なっているのを目にしただけで、異国で日本語を見つけたときのように、旅の緊張がほぐれた。
文庫の棚の前に立てば、いつも見ている名前が「あ」から順に並んでいる。文春文庫の浅田次郎の紺色の背表紙が真っ先に目に入る。「よっ、ここでも会ったね」と言われたような気分。何歩か横にずれると、新潮文庫の松本清張の明るめの臙脂色に気持ちが和む。宮部みゆきも同じような色だ。どちらも中身は純然たるミステリーやサスペンスでたくさん人が殺されているのに、ほっと安心する。いつもは、なんか洒落込んでいけすかない奴だなあ、という気分で見ているオシャレ系の雑誌も、久しぶりに会った同級生みたいに親しく感じられるから不思議だ。
大手出版社から流通している本は、日本中、どこの本屋に入っても同じものが並んでいる。そのことが旅人の心をいやしていることに、きっと出版社の人は気づいていないと思う。でも事実、いつもと同じ本がいつもと同じように本屋にあることで、僕はとても落ち着いた気持ちになれた。
別に本じゃなくても、コンビニやスーパーに入れば同じ気持ちになるんじゃないの? という気もするけれど、いや、やっぱり違う。「コアラのマーチ」や「ウイダー・イン・ゼリー」で同じ気持ちにはなれない。コンビニの商品とは違って、本にはもっとこう、なんというか人と人が通じ合うような感覚がある。一冊一冊に個性と相性がある。
旅先の本屋には、懐かしい人に再会するような、不思議なやすらぎがあった。でも、欲しい本はあんまなかった。
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