Essay
子どもと本
#43|文・藤田雅史
これといって行きたい場所も目的もないのだけれど、ちょっとおもてに出たい、ということはよくある。そういうときにたどり着く場所は、僕の場合、十中八九、本屋だ。休日、子どもが暇そうにしているので「じゃあどっか行こうか」と言って連れて行くのもまた、本屋だ。
ただ子連れで本屋に行くと、子どもが小さいうちは、親が自分のペースで自由に本を選ぶということが思うようにできない。
例えば、幼稚園児の娘と売場を歩くと、「あっ、アンパンマン!」「ドラえもんがいたよ!」といちいちシャツの袖や裾を引っ張られ、ちょっとでも立ち読みをしようものなら、「まだー?」「疲れたー」とクレームをつけられる。
「すみっコぐらし! かわいい! これほしい!」
「だめ、今日はこれ買わないから」
「こっちもかわいい!」
「だから買わないから」
「あれもいいしこっちもいいしでもこっちもかわいいなー。全部ほしい!」
「だめだっつの」
「見てこれ、めっちゃおいしそう!」
「だーかーらー」
面倒なので、ああもういいやこれで、と自分が読む本をとりあえず決め、それを持って彼女を児童書コーナーに連れて行く。
「いいよ、好きなところ見て。後ろからついてくから。でもおもちゃは買わないよ。キャラクターも今日は買わないからね。ガチャもしないよ」
釘を刺してから、絵本や図鑑、子ども雑誌を一緒にあれこれ物色する。
「この絵本、持ってる!」
「うん、持ってるね。持ってるのはいいからさ、持ってないの見なよ」
「ねえ見て見て、すみっコぐらしの映画の本がある」
「だから、今日はキャラクターは買わないって」
と、娘は急に内股になってもぞもぞと腰をくねらせる。
「え? おしっこ?」
小さく頷く。急いでトイレまで手を引く。僕は当然女子トイレには入れないので、一緒に入るなら男子トイレか多目的トイレだ。
「こっちに入ろう」
ところがトイレのドアに貼り紙がある。「精算前の商品の持ち込みはご遠慮ください」。そして僕の手には精算前の本がある。
「……おしっこ、ひとりでできる?」
「やだ、パパも来て」
「もうできるでしょ」
「でーきーなーいー」
しょうがないから、精算前の商品を慌てて売場に戻しに行く。
「ちょっと一瞬、我慢。我慢して。できるよね? できる!」
休日の本屋というのは、しばらくそういう場所だった。
で、最近。
娘は小学一年生になり、ふたつ上の息子は三年生だ。娘はもうひとりでトイレに行けるので、右のようなことはなくなり、だいぶ楽だ。息子はというと、店に入るなり、「じゃ」と言い残し、ひとりでずんずん売場を進んでいく。勝手知ったる、という感じで、大人たちの間をするするとすり抜けて、棚の奥へと消えていく。
子どものとき、僕は本屋で自由にさせてもらえるのが好きだった。
親子の買い物というのは、子どもにとってはそのほとんどが退屈な時間だ。デパートで歩き回るのは疲れるし、勝手にフロアを移動すると迷子になる。洋服にも電化製品にもお歳暮にも興味なんてない。おもちゃはいつも買ってもらえるとは限らない。スーパーはお菓子売場くらいしか面白いところがない。親が買い物をするときはいつも、「あー、早く終わらないかなあ」と思っていた。
でも本屋だけは違った。唯一、自分の好きな場所を勝手に見て歩いていいお店だった。本屋で与えられるその自由が嬉しかった。本の前では、大人も子どもも平等だ。売場に放置されることは快感だった。息子の背中を見つめながら、そんなことを思い出した。
息子は歴史が好きなので、探しに行くとたいていは「日本史」の棚の前で立ち読みをしている。いないときは雑誌棚のところで、常日頃愛読している『歴史人』とか戦国、幕末のムック本をめくっている。コミックスの売場にいるときもあるし、子どもらしく児童書コーナーにいることもある。本屋の中を自由に動き回っている。
「何かいい本あった?」
訊ねると、忍者のような足どりで素早く売場を移動し、一冊持ってくる。
『写真・図解 日本の仏像』
「え、それ?」
表紙の文殊菩薩が実に渋い。
「本当にこれでいいの?」
「うん」
子どもにとって、本は与えられるものだ。
小さいうちは、「大人が子どもに読ませたい本」を与えられることがほとんどだけれど、子どもがある程度の年齢に達し、自分自身の内なる興味関心を獲得してからは、もう、本は大人から「これを読みなさい」と与えられるべきものではないと思う。
子どもが本をめくる楽しさをおぼえたら、
「これを読んだら頭がよくなりますよ」
「これを読んだら感情が豊かになりますよ」
「これを読んだら道徳的な、やさしい子に育ちますよ」
そんな本はもういらない。まして、
「これを読んだらお洒落で賢い親子に見えますよ」
そんな親の見栄やエゴのために読む本なんて必要ない。
本は自分で選ぶものだ。自分の好きなことを、もっと知るために、もっと楽しむために。それができるところに、本屋の自由がある。子ども成長の何が嬉しいって、本を好きになってくれたことが嬉しい。
娘はまだ、勝手に好きな売場を見てていいよ、と突き放しても、僕がそばを離れると磁石のようにくっついてくる。でも、そんなふうに「パパと一緒がいい」の時期もあと一年か、二年か。本屋入ったら、上の子と同じように、勝手に好きな売場にずんずん歩いて行くようになるのだろうか。そのときがきたら、ちょっとさびしい気持ちになりそうだとまとめたくなるけれど、これがちっともそんな気持ちになりそうにない。
本屋はそういうところだ。大自然や公園のように、子どもを放置したい。
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