Essay
サッカーと本
#46|文・藤田雅史
つい先日、嬉しい知らせを受けた。
地元のサッカークラブのサポーターを題材に小説を書き、昨夏、短篇集として出版した、その本が、『サッカー本大賞2022』という、サッカーの関連本を対象にした文学賞の優秀作品に選出されたのだ。
出版社の担当者さんからそのメールを受け取ってから、日を追うごとに、ふつふつとお湯が沸騰していくみたいに、胸の中にささやかな喜びが沸き立っていく。心の温度が上がっていく。落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせるものの、やっぱり嬉しいものは嬉しい。自分の書いた原稿がきちんとかたちになるだけでも嬉しいのに、こんなふうに認めてもらえるなんて、書き手として望外の喜びだ。
書く、というのは人が思う以上に孤独な作業だ。それが小説となればなおさらだ。書き手は、自分と向き合い、自分の内側にあるものを絞り出すことでしか、作品と呼ばれるものを生み出すことはできない。誰かと理解し合い、励まし合うなどということはまずない。むしろ人と話せば話すほど、理解してもらおうと思えば思うほど、誤解されたり、書きづらくなることのほうが多い。頑張れば頑張っただけ評価されるようなものでもなく、時間をかけて努力をすればきちんとお金になるというものでもない。書きたいから書く、あるいは、書かなければならないから書く、それだけだ。そして人が書くものに「正解」はない。
書いていると、よく思う。この原稿は本当にこれでいいのだろうか。これではいけないんじゃないか。その不安を完全に拭えたことなんてこれまで一度もない。いつだって自信がない。だから、こんなふうに自分の書いたものを認めてもらえるというのは、本当に嬉しいのだ。主催者、選者、関係者の皆さんに毎年お中元とお歳暮を送りつけたい気分だけれど、あの人うざいね、と思われてはいけないのでそれはやめる。
10代の頃からサッカーが好きで、小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「Jリーグ関係者」だった。大人になってから、頼まれもしないのに小説を書き、せっかくだからとサッカーを題材にしたものを書き続けているうちに、地元のJ2チームのサポーターズマガジンから声をかけてもらって、おそるおそる連載をはじめた。
「サッカーなのに小説? なんだこれ?」
怪訝に思われるのはわかっていた。でもそこでひるんで、書くことをやめないでよかった。
そもそもスポーツは本来、身体を動かして楽しむものか、あるいは目で見て楽しむものだ。食べものがそうであるのと同じように、常にフィジカルな感覚とともにある。試合の内容や選手のプレーは、性質上、読んで楽しむようなものではない。サッカーのゴールシーンがどんなに感動的であっても、それは文字では表現しきれない。それどころか、冷静に言葉で表現した途端、ありきたりで陳腐なものになってしまうことが多い。
例えば、「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれている、サッカー日本代表がW杯初出場を決めた、九七年秋のW杯アジア最終予選のあの試合、あの岡野雅行の延長後半のゴールデンゴール。あの瞬間、どれだけたくさんの日本人がテレビの前で心を動かしたかしれない。でもそれを、『中盤の相手陣内で呂比須ワグナーが相手から奪ったボールを、中田英寿がペナルティエリア付近までドリブルで持ち運び、左足でシュート。ゴールキーパーが弾いたボールを、ゴール前に詰めていた岡野雅行がスライディングをしながら右足で蹴り込み、日本が決勝点を挙げた』と書いたとして、その文字情報に感動のようなものは皆無だ。
あのゴールは、見なければだめだ。実際にスタジアムの観客席やテレビの中継映像の前でリアルタイムで見なければ、拳を振り上げなければ、歓喜の輪をつくる選手たちやベンチから駆け出す岡田監督に心の中で抱きつかなければ、サッカーの感動は存在しない。
複雑なパス回しから生まれる完璧なゴールなどは、正確に描写すればするほど、どんどんつまらなくなっていく。『ゴールキーパーのエデルソンからルベン・ディアス、ストーンズと自陣でつないだボールを左サイドのカンセロが大きくサイドチェンジ。自陣右サイドのタッチライン際でトラップしたウォーカーがひとり交わしてセンターサークルにいるロドリにパス。デブライネ、ベルナルド・シウバとの短いパス交換から、ワンツーで抜け出したデブライネが左サイドの大外に張り出していたスターリングに素早くパスを送ると、一対一で相手ディフェンダーを交わしたスターリングがペナルティエリアまで素早くドリブルで切れこみ、中央のフォーデンへ。フォーデンが意表を突いてスルーし逆サイドに流れたボールを、今度はマフレズがワントラップで相手ディフェンダーを交わし、ゴールラインぎりぎりでマイナスのセンタリング。ディフェンスに当たってこぼれたところに走り込んだデブライネが強烈なシュートをゴール右隅に突き刺した』
読むこと自体が面倒くさくて、サッカーが好きな人でも途中から読み飛ばす。サッカーを知らない人であればなおさらだ。もう二度とサッカーを読もうだなんて思わないだろう。サッカーを書くことがサッカー文化の発展に寄与すると思いきや、サッカーを文字で表現することは案外、諸刃の剣である。
言葉は雄弁だが、言葉で描く世界には限界がある。
野球や相撲、陸上競技のように、読み手が常に同一の視覚的なシーンを共有できるのであればまだ書きやすいかもしれないけれど、サッカーのようにプレーやポジションが流動的なスポーツ、偶然性に支配されるゲームの内容は、目で見たように伝えることが難しい。文字を連ねるより、動画や図解のほうが確実に伝わる。
でもそのかわり、言葉でしか表現できないこともある。その試合に至るまでの出来事、そのプレーに至る因果関係、そのゴールに至る偶然と必然、たくさんの方法論、エピソード、感情。それはつまり、目に見えないものだ。選手の、観客の、人間の心の内側にあるものだ。それを書くことが、サッカーを書く、ということなのだと僕は思う。そしてそれがまた、サッカーに限らず、書く、ということの本質なのではないか。
言葉でしか表現できないサッカーの世界がある。今回、それを評価してもらえたことがとても嬉しい。本当に、ありがとうございます。
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