Essay
流れていくものと本
#47|文・藤田雅史
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。
「時間」という概念を発見した人間の前では、あらゆるものは流れ、過ぎ、とどまることを知らない。本についてのあれこれを綴るこの連載が、あと少しで通算50回の節目を迎えようとしている。月に1回の更新だから、来月の48回目で連載開始からちょうど4年が経つことになる。4年といえばオリンピック。サッカーのW杯。アメリカ大統領の任期。それなりの時間の経過である。高校を卒業したばかりの子が大学生になり、いよいよ社会へ出る、それだけの時間をかけてコツコツと文章を書き続けていれば、何かしら知的な意味での成長を実感してしかるべき、と思うものの、これがちっとも感じない。そういう連載ではないのだ。
それでも、50回に近い回数を数えればさすがに満腹感のようなものはある。もう書くネタがないぞ、と思ったりもする。そして同時に、ちょっとした虚しさのようなものも感じずにはいられない。書いたものが、流れ、過ぎ、とどまることなく消えていく。
かつて、文章は目の前の紙に定着した「活字」として存在するものだった。文章に限らない。写真だって、絵だってそうだ。音楽や映画は実態としては存在しなくても、テープやCDやDVDといった「もの」として存在していた。映画はスクリーンという特殊な空間にあり、音楽にはライブというこれまた特殊な装置によってその熱量を保証されていた。でも今はといえば、すべての「作品」が一様に、「コンテンツ」という言葉でひとくくりにされ、小さな画面の中で配信され、瞬間的に消費されて、役割が終われば消えていく。雑誌や新聞をストックしたり、気に入った文章を切り抜いてスクラップするような行為は「コピペ」という行為に置き換わり、ハードディスクというブラックボックスの中で英数字の無意味な羅列に変換させられる。それらは「もの」として大切に保管する必要はない。人間の生きる部屋から存在を消され、ただ思い出したときに「検索をかければよいもの」に成り下がりつつある。CDケースに収められた歌詞カードのブックレットを何度も何度も取り出して繰り返しめくり、言葉を味わい読み込むような行為は、「音楽を聴く」ということの一部ではなくなった。
ある時期から、「作品」と呼ばれるものを作り続ける人たちの世界を、薄い靄のようなある種の虚しさが覆っている、そんなことを感じるようになった。気のせいかもしれない。年齢のせいかもしれない。でも、「どんなに一生懸命作っても、どうせ、ただのデータとしてしか扱われない」そういうことが、平気で起こる世の中になってしまったのは事実だろう。僕自身、ラジオドラマを長い間書いてきたけれど、「これ、放送が終わればあとは何も残らないんだよな……。所詮、ただの音声データなんだよな……」と、放送局から送られてくるmp4のファイルを解凍しながら何度も思った。まあ、「それはお前の書くものに価値がないからだ」と言われればそれまでなのだけれど。
今は、原稿がかたちになって残る時代ではない。誰かの日記やつぶやきや、政治的主張、無署名のゴシップ記事、スポーツニュース、コマーシャル、その他あらゆる文字情報と同じように、ネットの空間を漂い、流れ、消えていく。それもものすごいスピードで。書いたものが留まらない。「アーカイブ」というのは、言葉の響きのよいゴミ箱のことだ。書き手として、そのことがさびしい。
そこで思う。だからこそ、原稿を書くことを生業にしている者にとって、「本」というのはやっぱり特別なものだと。
本は、「どの本が面白いか」「どの本が好きか」というように、いつだって読む人にとっての価値で語られるものだけれど、原稿を書く側に立ってみれば、今の時代、本は、この世界で自分の原稿が読まれた証、のようなものである。この世界に生きていることを、「本」が認めてくれる。
と、ここまで書いて、お知らせです。(ここまで真面目に書いたことは、実は前振りなのです!!)
4月23日、この連載エッセイが、一冊の本になります。『ちょっと本屋に行ってくる。』(issuance刊/1,400円+税)。本について考えた、感じた、これまでのあれこれを、一冊の本というかたちでこの世界に残すことになりました。書き下ろしもあります。
毎月この連載のページを覗いてくれている皆さん、ぜひお手にとっていただけると幸いです。取扱いをしてあげてもいいよという素敵な本屋さん、ぜひ版元のissuance(イシュアンス)さんまでご連絡ください。
どうかこの本が、誰かの本棚に、誰かの記憶に、残りますように。
■