Essay
真夜中の温泉と本
#51|文・藤田雅史
この連載のはじめに、本を風呂場に持ち込むことについて書いた。連載をまとめて4月に発売したエッセイ本でも、そのエピソードを最初に載せた。日帰り温泉の露天風呂で堂々と読書している人に羨望とも嫉妬ともつかない複雑な感情を抱き、いつか自分もあれをやってみたい、と憧れたという話だ。ただ、(浴場に本を持ち込むのってマナーとしてどうなんだろう……)(全裸の状態で他人から白い目で見られるのはちょっと……)と周囲の視線がどうしても気になり、なかなか実行に移すことはできなかった。小心者である。
今年の春、原稿仕事が一段落し、子どもたちも春休みに入ったので、たまには気分転換を、と思って家族で温泉旅館に一泊した。旅館やホテルに泊まるときは、必ず本を何冊か持っていく。家族と一緒のときも、ひとりのときも、読む読まないに関係なく、どこかに外泊するときはバッグの中に着替えとともに未読の本を忍ばせる。本がないと落ち着かない。正確には、「旅先で時間があって本を読みたい気分になったとき、そこに本がない」という小さなストレスでもやもやするのが嫌なのだ。
旅館にチェックインし、部屋で寛ぐ前にひとっ風呂浴び、夕食でお腹をいっぱいにしてからもう一度風呂に行き、ちょっとお酒も飲んで、その夜はあっというまに眠りに落ちた。本を持っていったものの、本を読むどころか、布団の上でスマホを手にメールチェックをしているうちに瞼が重くなり、すとんと寝落ちした。そういうときもある。
気がつくと真夜中だった。隣で浴衣をはだけたまま熟睡している子どもたちにそっと布団をかけてやり、さてもうひと眠りしようと横になった。ところが温泉効果でよほど深く眠ったのだろう、ちっとも眠気がやってこない。ならば持参した本でも読もうと思った。でも部屋に枕元灯のようなあかりの用意はなく、本を読むには天井の蛍光灯を点けるか、廊下に出るしかなかった。仕方ない、そしたらまたひとっ風呂浴びてこよう、そう考えて起き上がり、ふと思いついた。
あ、大浴場の露天風呂で本を読んでみよう。真夜中の今がチャンスではないか。
もしも他に入浴客がいたらやめておこうと思った。でも大浴場は僕の他に誰もいなかった。午前3時だ。入口にスリッパはなく、脱衣籠はきれいに整頓され、どれも空だった。客室数10室ほどの小さな旅館なので、この時間から他の入浴客がやってくる確率はかなり低いだろう。浴衣をするりと脱ぎ、タオルと一緒に、持ってきた文庫本をおもむろに手にとる。大浴場のドアを開けると、もわっとした湯気がたちこめていた。本を湿らせないように乾いたタオルでくるみ、いそいそと露天風呂に出る。春の夜風の冷たさが気持ちよかった。温泉はもっと気持ちよかった。開放的な場所で、解放感を味わいながら、本を手にとる。ページを開く。
ああ、こらええわ。極楽や。なぜか関西弁になる。
でも。他の入浴客が来たらと思うと、だんだんそれが気になって仕方がなくなってきた。露天風呂は狭かった。自分が浸かっている露天風呂に他の客がやってきた場合、普通の状態であれば、(さてさて、あっしはもうこのへんで)という雰囲気でざばりと風呂から上がれるけれど、本を読んでいた場合、いきなり風呂から上がると、いかにもその人がやってきたために読書を中断させられた、(せっかく読んでいたのになあ……)みたいな雰囲気になってしまうのではないかと心配だ。かといって、狭い露天風呂の湯船で真夜中に全裸の他人と接近・相対して本を読み続けるのはちょっとした苦行に違いなく、そのシーンを想像するとすでにいたたまれない。ページをめくり文字を追いつつそんなことを考えていたら、本の世界に没入する、という本の楽しさがちっとも味わえなかった。
本を閉じ、まだまだだなあ、と思った。気の小ささが我ながら情けない。露天風呂でゆっくり本を読めたら最高だろうなあ、と思っていたのに、いざ実行に移すと、いろんなことが気になってちっとも落ち着かない。実際にやってみると、それは「露天風呂で本を読む」という行為のそれ以上でもそれ以下でもなかった。そして思った。露天風呂での読書を楽しむために必要なのは、第一に、状況そのものではなく、それを楽しめるメンタリティの方なのだ。小心者の自分にはそれがない。風呂で本を読むのは、やっぱり我が家がいちばんいい。没頭できなきゃ、読書は意味がない。
本を閉じ、まだ濡らしていないタオルでくるみ、飛沫の届かない岩場の上にそっと置いた。冷えた両手を湯に沈め、あごまで浸かる。見上げると、夜空の星がきれいだった。やっぱり近くの文字より遠くの星のほうが、露天風呂にはふさわしい。
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