Essay
ギターと本
#54|文・藤田雅史
事務所にギターが一本ある。地元の島村楽器で見つけた国産のアコースティックギターで、渋く深みのあるボディの色が気に入って、十年くらい前に買った。しばらく自宅に置いていたが、最近は事務所の片隅にいつも立てかけておいて、仕事でひと息つきたいとき、何もやる気が起こらないとき、思いついたように手に取ってジャカジャカやっている。
今、「弾いている」と書かずに、「ジャカジャカやっている」という言葉を使ったのは、僕のギターの腕前がとても「弾く」というレベルにないからだ。「弾く」というのは「自由に音楽を奏でる」というような意味で、僕の場合はただコードをかき鳴らしたり、指に覚えこませたフレーズだけをポロポロやって満足しているだけ。永遠の初心者。ビギナーレベルから十年抜け出せない。情けないが、弾けないものは弾けないのだから仕方がない。もちろん弾きたい。弾きたいからギターを買った。そして弾きたいから教本も買った。なのになぜか、ギターは弾けないのに教本だけが何冊も積み上がっている。
教本が悪い、と思う。
いやここはハッキリと断言しよう。教本が悪い。「弾ける!」「初心者におすすめ!」と書いてあるから買ったのに弾けないのだ。そんなの、教本が悪いに決まっている。練習という努力をしていないなら弾けないのは当たり前だろう、と言われるのはわかっている。それでも言いたい。教本が悪い。
教則本というのは、最初は簡単だ。「まずは6つの弦の音を鳴らしてみましょう」みたいなところから始まる。そんなの誰にでもできる。でもそこから数ページ、「簡単」なところを「こんなの楽勝だぜ、馬鹿にすんなよ」みたいな態度で進めて行くと、突然、「できない」ところにぶつかる。あれ? 指が動かない。動かせない。弦を抑える左の手と、弦をつま弾く右の手が同時に正しい動きをしてくれない。
するとどうなるか。急につまらなくなる。あきらめる。そして、簡単なコードだけ覚えてジャカジャカやって弾いた気になって終わる。Fコードが弾けるようになっただけでもういいや。そこが自分の能力のMAXになってしまう。練習という努力をしていないなら弾けないのは当たり前だろうと言われるのはわかっている。それでも言いたい。教本が悪い。
本というのは面白いもので、同じことを書くにしても、書き手によって読んだときの理解度が異なる。読みやすく、分かりやすく、平易な文章で書いているのに、ものすごく深いことが分かることがあれば、文章がぎこちなく読者への配慮が足りないために簡単なことでもまったく頭に入らないこともある。ギターの教本も、そういうことではないかと勝手に思うのだ。
読んでいるうちに、読み進めるだけで、「おお、そういうことか、練習するって楽しいな、これなら弾けるぞ、上達するぞ、わーい!」という気分になれる教則本はないだろうか。音楽が好きな人は世の中にごまんといる。演奏が達者な人もごまんといる。これから音楽を始める人もたくさんいる。ならば、読んでいるうちに弾けちゃうような教本を書ける人、楽器が弾けて教えるのも上手くて文章もめっちゃ得意、という人がいてもいいではないか。
ただ、それができるとしたら、本を一冊読んだだけでプロ野球選手になれる人が出現する可能性も否定できないことになり、まあ、やっぱり無理な話なのだろう。いつか、自分が文章を書くことを生業にする人間として、そのプロフェッショナルな能力を最大限に発揮して(笑)、そういう本を書いてやろう、と一瞬思ったが、そもそも弾けなければ書けないのだった。おそらく、僕には一生書けない。
ジャラ〜〜〜ン。(←締めのCコード。高いEが上手に鳴らない。)
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