Essay
ながらと本
#55|文・藤田雅史
本を読むことに夢中になると、読むこと以外のすべてが面倒くさくなるときがある。
例えば、いよいよ残り20ページをきったサスペンス巨編、決勝戦9回裏ツーアウト満塁の野球コミック、ベッドイン直前の純愛小説。クライマックスを迎えたとき、人は容易に本を手放すことなどできない。
だから人は、食事をしながら本を読んだりするし、授業中にジャンプを読んだりするし、取引先から送られてきた企画書の資料を精査するふりをして会議室の壁を背にスマホでマンガを読んだりする。
気持ちはわかる。だけど、それがあまり褒められたことではないこともわかる。先日、息子が食事中に本を読んでいたので、「食べるか読むかどっちかにしなさい」と注意した。いや、どっちかにしなさいではだめだ、「読む」の方を選んでしまう、と思い直し、「食事中は読まないの!」と強く言い直した。聞き分けのいい息子は少し残念そうな顔になったが、父親に言われたとおり、本を閉じた。
それから数週間後の土曜日の夕方、翌日に控えた競馬のビッグレースのことで僕の頭の中はいっぱいだった。テレビの競馬中継を見ながら馬場状態をチェックし、風呂にスマホを持ち込んで長湯しながら過去のレース映像を何度も見返し、風呂上がりに競馬新聞を読みこんでレース展開を子細に検討していた。「ご飯だよ」と呼ばれて、僕はその新聞を持ったまま食卓の椅子に座った。右手に箸を、ときどきペンを。目の前にあるのは左からご飯、主菜、副菜、味噌汁、競馬新聞、である。
「食事中は読まない」
息子にきつく注意された。ごもっとも。ああ、今いいリズムで予想していたのに。悔しい気持ちでペンを置いた。
人はなぜ食事中に本を読んではいけないのだろう、と改めて問題提起をしたい気もするが、感覚的に、考えるまでもなくそれはやっぱりだめだろう、と思う。ラーメン屋でラーメンを啜りながらマンガを読んでいる人を見かけると、行儀が悪いな、と思うし、そんなとこでマンガ読んだら思いっきり汁が飛ぶよね、とも思う。作ってくれた人に対してちょっと失礼じゃないか、とも思う。
テレビやラジオ、音楽であれば、「見ながら何かする」「聞き流しながら何かする」ということができるけれど、どうも本は「ながら」が難しい。文章を追わないとそこにある情報を理解できないし、理解できないと面白くもなんともない。そして文章というのはそれなりの集中力で没頭して読まないと、「読む」ことにならない。(もしかしたら、それが若者の本離れの一因なのではないかと思うときもある。)
もし「読みながら何かする」ということが可能になれば、これはちょっとスゴいことなんじゃないか。残念ながら自分には無理だが、例えば「刑法を読みながらアメフトをプレーする」みたいなことができれば、それは知的活動と身体的活動を同じ集中力で両立させることができるというわけで、学生は文武両道をかつてないレベルで体現することが可能になる。そういうことができる人は、あるいは、「右目でドストエフスキーを読みながら、左目でトルストイを読む」なんていうことも可能になるかもしれない。企画書の分厚い資料を読み込みながら、見積を作り、電話に出て、打ち合わせをし、セールスまでできれば、仕事の生産性は爆上がりだ。
さて、つい数日前、台所で夕飯の支度をしていたら、「腹減ったからこれ食べていい?」と息子が冷蔵庫からもらいものの柿を取り出した。「パパ忙しいから、自分でむいて食べるならいいよ」「わかった、そうする。包丁とまな板とって」「はいよ」そんなやりとりの後、やけに静かだなと思ってダイニングを覗いてみた。
息子は、柿をむきながら本を読んでいた。「包丁、危ないって!」と注意しつつ、親バカな僕はちょっと彼に期待をしてしまった。
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