Essay
束見本と本
#57|文・藤田雅史
このところ、ずっと原稿に向き合う毎日だ。3月に新しい本が出るので、その校正作業で忙しい。忙しい、といってもただ読んで直して読んで直してを繰り返すだけだから、見た目的にはちっちとも慌ただしくない。忙しそうに見えない。でも校正というのは非常に神経を使う。集中力が必要だ。早朝からスタバにこもって赤ペン片手にゲラを読み、事務所にこもってMacでそれを直し、とにかく気が抜けない。週明けには最終のゲラがやってくる。まさに今、佳境なのだ。
そんな中、出版社の担当さんが打ち合わせのためにやってきた。
「届きましたよ」
そう言っておもむろに鞄から取り出したのは、差し入れではない。土産でもない。束見本である。
束見本。本を作るとき、実際に使用するのと同じ紙、サイズ、ページ数で作る「本のサンプル」が束見本だ。(たばみほん)ではなく、(つかみほん)と読む。印刷工程に入る前に、実物の重さやサイズ感、手触り、雰囲気の確認を行うために必要なもので、本の筆者が毎回必ずそれを手に取るかというとそうとは限らないのだが、今回は手に取ることができた。
校正中なので原稿はまだ揃っていない。だから当然中身はない。真っ白だ。でも、表紙、見返し、本文、すべて本番と同じ指定用紙で製本されているので、それは完全な本である。素っ裸の、生まれたばかりの、まだ言葉を知らないピュアな本。そんな感じだ。
「これ、いいですね」「いいよね」「いいよ」「うん、サイズもいい」「うん、ちょうどいい」「うん」「うん」「いいね」「いいね」
気に入ったものが目の前にあるとき、人間に語彙は不要だ。「いいね」をひたすら言い合って、何冊かあるうちの一冊をわけてもらった。
束見本が好きだ。そこにはひとつの文章も、ひとつの言葉も、ひとつの物語もない。でも、ちゃんと本なのである。
そうえいば以前も一度、束見本をもらったことがあった。すべてのページが白地の本というのは、つまりノートでもある。こんなに美しい、贅沢なノートがあるだろうか。日記にでも使ってみようか、ネタ帳にして持ち歩こうか、美しい詩でも書いてみるかといろいろ考えてみたのだが、そこに何かを書こうと思っても、書けなかった。自分の安物のペンで、自分の醜い文字で、自分のくだらない言葉でその無垢なものを汚してしまうのが、罪としか思えなかった。たぶん、本が好きな人にとって、束見本ほど神聖なものはないのではないか。それほど束見本は神々しい。
これ、売ればいいんじゃないか。
今回、束見本を手に取り、神聖さとはまるで正反対のことを思った。例えば、「村上春樹の新作と完全に同じ仕様の束見本」。けっこう売れるんじゃないか。欲しいと思う人、いるんじゃないか。上製本にするとコストが上がるのなら、並製本でもいい。いや、この際、文庫本でどうだ。完全に文庫本と同じ仕様の束見本。いいじゃないか。新潮文庫仕様、角川文庫仕様、文春文庫仕様、みたいにシリーズ化されていて、新書版もあったらいい。岩波新書仕様の束見本があったらぜひ欲しい。欲しいぞ、これは。
そう思って、ふと思い出した。以前、無印良品でそれと似たようなものを買ったことがあった。文庫ノート。「おおー、こんないいものがあるなんて!」売場で見つけて、衝動的に買ったのだ。買わずにはいられなかった。(あの商品、今も売っているのだろうか。)
でも、そのときも結局、上手く使えなかった。アイディアノートにしようと思って、とりあえず1ページ、何かを書いて、途端に「あああ、すべて台無しにしてしまった」という絶望的な気分に陥ったのだった。
本が好きな人は、本にふさわしい言葉を本に求める。自分の言葉は、本にふさわしくなかった。つまりはそういうことだったのだろう。それゆえの絶望だったのだろう。
さて、来月本として活字になる自分の言葉は、本にふさわしいものになれているだろうか。うん、ちょっと怖い。
■
本サイトのウェブ連載エッセイが、一冊の本になりました!「本とともにある、なにげない日常」を、ちょっとしたユーモアで切り取る、本にまつわる脱力エッセイ『ちょっと本屋に行ってくる。』現在好評発売中です。>>詳しくはこちら
藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。』
issuance刊/定価1,540円(税込)