Essay
白黒映画と本
#60|文・藤田雅史
このところ、いまひとつ本を読む気分になれない。新しい本を手に取っても気持ちがまったく上がらない。むしろ今はちょっと活字から離れたい。そういうときがたまにある。あの子のことは好きだけれど、今は距離を置いてひとりきりになりたい。そんなときがあるように。
それでこの3週間ほど、まったく活字の本を読んでいない。ではいつも本を読んでいた時間に何をしているかというと、マンガを読み、そして映画を見ている。
サブスクで白黒映画を見はじめたのは、最初は「映画を見る」というより、夜寝る前の寝落ち用だった。僕は大学時代、映画学科という珍しいところに所属していて、授業でいろんな映画を見せられた。ただ、当時から白黒映画というのはどうも苦手で、『丹下左膳』も『人情紙風船』も『どん底』も、見ているうちに机に突っ伏して途中で寝た。その記憶があるから、「忙しいときはしっかり睡眠をとろう」→「いい眠りのためには布団に入ってすぐに寝たい」→「間違いなく寝れるのは白黒映画だ」ということで、見はじめたのである。
確かに白黒映画は寝れた。本編がはじまる前のクレジットの段階で寝てしまったこともある。ただ、毎晩繰り返し見ているうちに、だんだんモノクロの世界を見ることに慣れてきたのか、頭の中にそのフォーマットが出来上がったのか、次第にドラマに引き込まれるようになった。
まず、『東京物語』を最後まで見て感動した。なんていい映画なんだろうと思った。学生時代にも一度見ているはずなのだけれど、当時とはまるで感触が違った。よく耳にするように、「若いときは小津の映画なんて退屈なだけだと思ったけど……」というパターンである。完全にそのパターンである。
それからは、小津安二郎の白黒映画を、有名な順に片っ端から見ていった。『麦秋』『晩春』どちらもよかった。『東京暮色』『お茶漬けの味』、それからカラーの『秋日和』『秋刀魚の味』『彼岸花』。『浮草』にはエンタメ的なメロドラマのよさを感じた。戦前のサイレントまではさすがに手が回らないけれど、とにかく見た。途中で寝ても、翌日。また寝てもまたその翌日。今の若い俳優さんよりも、原節子、笠智衆、佐分利信、佐田啓二の方に親近感を抱くようになった。中村伸郎が渋い。岡田茉莉子が可愛い。そして杉村春子に役者の凄味を感じる。
で、小津映画に満足してからは今度は成瀬巳喜男にハマり、『乱れる』『女が階段を上る時』『娘・妻・母』などを立て続けに見て、今もまだ色のない世界の魅力にどっぷりと浸かっている(中にはカラー作品もあるけれど、面白くなってきたら、もう白黒だろうがカラーだろうが関係ない)。
白黒映画というのは、光と影だけの世界だ。陰影。濃淡。色を失うと世界がこんなふうに見える、というのは、今さらだけれど新鮮な発見だった。人間や風景の見え方がちょっと違う。でも、ドラマそのものは白黒でもカラーと遜色なく、遜色ないどころかまったく同じように成立している。それを思うと、そういえば本もまた、活字だけの世界、白と黒の世界なのであり、小説の中にはドラマが完全なかたちで成立している。なるほど、物語というのは本質的に、視覚情報から得られるものではなく、人間の頭の中の想像力による産物なのだ。そのことを改めて考えた。
さて、次はどんな作品を見よう。白黒映画といえばあとはもう黒澤明くらいしか思いつかない。映画学科出身ながら、恥ずかしいことに僕の頭の中には1950年代の日本映画の知識が皆無なのである。別に映画を見るのに知識なんてなくてもいいのだけれど、でもちょっとくらいは何かを知っていた方が楽しめるということもある。
で、結局、本屋に行った。「芸術」の棚の「日本映画」のところであれこれ物色して、小津安二郎の作品について書かれた分厚い本と、映画評論家が薦める日本映画の読みやすそうな本を買った。こうしてまた、いつのまにか活字の本が読みたくなる。活字の本に戻っていく。
とりあえず、小津についての本を読みはじめた。数ページで寝た。これは寝落ち用というわけではないのだけれど。
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