Essay
夏休みと本
#63|文・藤田雅史
今年も山に来ている。毎年、夏になると子連れで山にこもる。山は涼しい。エアコンがいらない。梅雨が明けてからの猛烈な、まさにうだるような暑さから解放されるだけで、今年は特に、ああ、来てよかった、と思う。(そのくらい、今年の暑さはきつい。)
山には、本を何冊か連れていく。(子どもやペットじゃないんだから「持っていく」だろう、といったんは書き直したものの、なんだかやっぱり「連れていく」のほうがしっくりくるので、連れていく、としておく。)ただ、例年と違い、今年は諸事情あって自家用車ではなく新幹線での行路となり、持ち運べる荷物の量に制限がかかってしまった。約一週間分の着替えや生活用品を、子どもふたり分の着替えも含め、新幹線の座席の上の棚に載せられるサイズのスーツケースに押し込むには、どうしたって本当に必要なものとそうでないものの選別をしなければいけない。つまり、本の数をうんと減らさなければならなくなった。
未読の本で、できるだけ夢中になれそうで、それなりの分量があって、しかも持ち運びがしやすい文庫であること。熟考の末、連れてきたのは、最近立ち寄った本屋さんで激推しされていた『未必のマクベス』早瀬耕(ハヤカワ文庫)だ。約600ページあるから、毎日100ページくらいずつ読めばちょうどいい、と思った。
ところで、以前は山に来ると、観光スポットに行きたくなったり、近くのアウトレットで買い物をしたくなったり、あるいはレンタサイクルで周囲の散策をしたくなったりしたものだけれど、最近はそういったアクティビティ的なものにすっかり興味がなくなり、わざわざ人のいることろに出かけて行くのが億劫になった。日帰り温泉と気に入りのジェラート屋だけ行ければいい。ゆっくりできるときは、何もせずにゆっくりしよう。四十を過ぎて、休む、ということの大切さをようやく知りつつある。仕事のメールもLINEも、Wi-Fiの電波の不安定さを理由にあまりチェックしないことにした。
で、山に来て何をしているかといえば、寝るか、食べるか、温泉につかるか、あとは多少麓の町を散策するくらいで、これといって何もしていない。それでも「ひまだなあ」「退屈だなあ」と思わないでいられるのは、やはり本がそばにあるからだ。行きの新幹線をホームで待ちながら読みはじめた『未必のマクベス』は、あっというまに、2日目で読み終えた。面白かった。物語に引き込まれた。読んでいる途中で本家・シェイクスピアの『マクベス』も読みたくなり、初日、温泉帰りに山の麓の本屋さんで新潮文庫のものを見つけて買った。以降、毎日、その本屋さんに通っている。
思えば、こんなふうに読みたい本を本当にゆっくり読めるのは、毎年、この夏の山ごもりの時間だけである。普段、家と仕事場を往復する毎日の読書時間といえば、何かと何かの作業の合間の細切れの時間だったり、夜寝る前のわずかな時間だったりで、「読む」という行為自体も、ただ好きなものをランダムに思うままに、というわけにはいかず、例えば仕事のための読書だったり、「何かをそこから学ばなくては!」と肩に力を入れての読書だったり、「せっかく買ったから読みたくないけど読まなくちゃ」というよくわからない義務感からの読書だったりして、案外、なんというか、窮屈な読書であることが多い。今回のように、600ページの小説を、わずか一日二日でその世界にどっぷりつかって楽しんで読みきるなんて、久しぶりのことだ。「暑さから逃れたい」とか「夏休みがほしい」とかだけじゃなく、やっぱり僕はこういう時間がほしくて、毎年、山に来ているのだと思う。
ところでちょっと面白いなと思ったのは、毎日夕方、日帰り温泉に行くのだけれど、湯上がりの休憩スペースで冷たいものを飲みながらおもむろに本を取り出し、読みはじめる、小学5年生の息子のそのスタイルが、僕とまったく同じであることだ。彼は歴史が好きで、歴史ものの本を三、四冊、自分のリュックに入れて山に持参した。本さえあれば、小学生が喜びそうなアクティビティなどなくても、ひまでなければ退屈でもないらしい。昨日、洗ったばかりの濡れた髪を垂らしながら『戦国の城の絵事典』を開いた息子に話しかけた。
「なんかさあ」
「うん」
「本、露天風呂に持ち込んで読みたいよね」
「わかる」
僕も本を開いて、そこで会話は終わる。静かな夏休みだ。
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BOOK INFORMATION
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