Essay
東京と本
#67|文・藤田雅史
拙著『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』が先日、発売された。今回は日本全国けっこうな数の本屋さんで取扱があるという。ありがたいことだ。この場を借りて、発注をかけてくれた書店員の皆様に御礼を申し上げます。誠にありがとうございます。
せっかくなので、津々浦々、売場に本が並んでいるところを見に行きたいと思っている。「日本全国自分の本めぐり」をしたい。ついでにその街を散歩し、地元グルメに舌鼓を打ち、温泉にでも浸かって、その様子をインスタにでもアップしたい。
でも、できない。まずもって仕事のスケジュールがそれをさせてくれないし、よしんば暇人であったとしても、そもそも旅費がない。「日本全国自分の本めぐり」なんてことをしたら、本の印税などすべてあっというまに吹っ飛んでしまう。せめて都内の本屋さんには行きたいと思うのだけれど、残念ながら行けても年明けになりそうだ。来年、取扱店を訪ねたとき「あ、その本なら売れなかったんでとっくに返品しましたよ」となっていないことを祈っている。
東京が好きで、ときどき東京に行く。18歳から24歳までの6年間を、僕は中野のアパートで暮らした。20代の半ばに生まれ育った町に戻り、そのまま生活の根を下ろして現在に至る僕にとって、今、故郷といえばむしろ東京のほうである。
東京に行くと、だいたい芝居を見る(というか見たい芝居に合わせて東京に行く)。でもそれだけじゃもったいないので、都内に一泊し、そのとき興味を引く企画展をやっている美術館に足を運んだり、雑貨屋さんや服屋さんを見て、ついでにいくつか本屋さんにも立ち寄る。できたらその調子で日本全国いろんなところに行きたいのだけれど、小学生ふたりの生活も見なければいけない今、気ままなひとり旅を心置きなくできる行き先は、東京が限界だ。
本の中でも書いたことだけれど、旅先で本屋に行くのは楽しい。普段とはちょっとテンションが違うから、いつもと違う本に目が行ったりする。そしてやはり、せっかく来たんだからと本を買う。わざわざここで買わなくても地元の本屋にも売ってるし、なんならAmazonで買えるし、と思いつつ、いやこれ、だって帰りの新幹線の中で読むし、と自分に言い訳をしながら買う。
しかし、である。
30代まではいくら本を買っても、それがストレスになることはなかった。40代に入った頃から、旅先で買う本の量に限界を感じるようになってしまった。というのも、芝居を見ればパンフレットを買う。美術館に行けば図録を買う。重いのだ。たいていホテルにスーツケースを置いてリュックひとつで行動するのだけれど、背中の重さが、最近、かなり堪えるようになってきた。
特に図録はひどく重い。尋常ならざる重さといっていい。美術館を出るとき、あーこれ買っちゃった、と毎回少しだけ後悔する。よいしょっとリュックを背負い直し、よしっ、と気合いをつけないといけないほどだ。その上、さらに本屋で本を買うとなると、それはもう気ままなひとり旅を超越してもはや修行に近い。だから、あの本もいいな、この本もいいな、と思っても、勢いでもう全部買っちゃえ、みたいなことは30代で終わった。買うとしても1冊か2冊、……いやまあ、多くて3冊か4冊が限度だ。(4冊は確実に重い。)
重い本を背負って東京を歩き回り、ようやく東京駅まで戻ってきて、帰りの新幹線に乗る。そのとき、ホームに上がる前に地下のグランスタで晩ご飯を調達するのがいつもの習慣だ。焼鳥、寿司、中華弁当、牛タン弁当、そのあたりをそのときの気分で上手に組み合わせて、毎回ちょっと豪華な新幹線ディナーを楽しむことにしている。スーツケースにリュックに、その上食べもののビニール袋をいくつも提げて歩くので、当然、荷物はかなり重い。かなり疲れる。一刻も早く座席に座りたい。リクライニングシートを倒したい。なのに、発車までの空き時間が10分あれば、改札の近くの本屋にふらっと入ってしまうから不思議だ。そしてうっかり、また本を買ってしまう。
新幹線の発車と同時に、グランスタ・ディナーをはじめる。一心不乱にむしゃむしゃ食べる。そうしてひと息つくと、あっというまに眠くなる。「これ、帰りの新幹線の中で読むし」と決めて買った本は、たいていリュックの奥底に眠ったままだ。そしてそのまま、本はそこにあることさえ思い出されずに、次の東京行きまでリュックの中で眠り続けていたりする。
それでも東京に行くと本を買いたくなる。これは何かの病気だろうか。
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BOOK INFORMATION
「本とともにある、なにげない日常」を、ちょっとしたユーモアで切り取る、本にまつわる脱力エッセイ『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』11月25日発売。>>詳しくはこちら
藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』
issuance刊/定価1,760円(税込)