Essay
多忙と本
#71|文・藤田雅史
「本に関するエッセイなるもの」を連載していながら、こんなことを言うのはあれだけれど、この一ヵ月、まともに本を読んでいない。年度替わりをめがけていろいろな仕事の〆切が重なり、その上さらに「すみませーん、申し訳ないんですけど、これもちょっとなるはやで……」みたいな小さな案件がいくつも重層的に積み重なって、本を読むひまがない。
仕事をいただけるのは、それはそれで非常にありがたい話なのだ。でも中には、正直なところ(これ自分がやらなくてもいいよな……)(これやっても全然お金にならないんだよな……)(なんかもう面倒くさいな……)と、プロ意識の欠片もないことをつい思ってしまうものもあり、そのせいで読書の時間が削られていると考えるとストレスは増幅する一方だ。
本を読むための、ちょっとしたすきまの時間がないわけではない。でも、ランチのあいだの数十分、お風呂でのひととき、夜寝る前、いつもなら当たり前に本に手を伸ばすタイミングがあったとしても、「あれもやらなくちゃ」「これも進めておかなくちゃ」「その後あの話はどうなったかな」と脳内がいつも進行中の案件のことでソワソワしていて、そのソワソワも、ひとつのことに関するソワソワではなく常にマルチソワソワで、落ち着いて本を手にとる、ページをめくる、その余裕を持てずにいる。
本はある。読みたい本のストックは枕元に何冊もある。でも読めない。ページを開いて文字を追っても、すぐにそのソワソワはやってくる。一行目と二行目のあいだに、小さな虫がまとわりつくようにソワソワソワソワとやってきて、ソワソワソワソワ、ソワソワソワソワ、微かな羽音を鳴らす。そして、ソワソワしながら本を読む、という中途半端なことに耐えきれなくなり、本を閉じる。
というわけで、ここのところまったく本を読んでいない。本音で言ってしまうと、本を読むことの優先度が、今、人生の中で下がりつつあるような気がしている。これはきっと一時的なもので、忙しさを抜け出せばまた、落ち着いて本を楽しめる日々に戻るだろうと思ってはいるのだけれど、でもその一方で、(このままもう本を読まなくなるんじゃないか……)という危惧もまた、心の片隅にある。
枕元でスタンバイしている本の中には、僕の大好きな作家さんの小説の新刊がある。二ヶ月前に発売された長編だ。二十年前の僕であれば、おそらく発売日に手に入れて、その日のうちに読みきっただろう。十年前でも、発売してすぐ購入し、二、三日かけてじっくり読み込んだと思う。たとえどんなに忙しくても、だ。(早くこれを読みたい!)その衝動を抑えることはできなかった。ところが今、その情熱と欲望が自分の中に感じられない。(まあ時間をとれるときにゆっくり読めばいいや)(本を読むより今はちゃんと寝て明日の仕事に備えたい)そう思っている。この気持ちの変化が、ちょっと怖い。
本に対して、長い文章をじっくり読むことに対して、今、同じように感じている人が、実は世の中、けっこういるのではないか。そんな気がする。言い訳のような僕の「忙しい」の中身は、今のところほぼほぼ仕事だけれど、人によってはそれが別の余暇時間の楽しみなのだろう(YouTubeだったり、SNSだったり、スマホゲームだったり、サブスクで見放題の動画コンテンツだったり)。そしていつのまにか、それまで本が担っていた楽しみが、「紙」ではなく「画面」に移行する。いや、もうすでに移行してしまっている。実際、僕もまた、本を読むひまはなくても、ランチのあいだの数十分、お風呂でのひととき、夜寝る前、スマホを手に取って何かしらをぼけっと見ている。
僕が暮らしている街では、大きな本屋さんがいよいよ売場を縮小しはじめた。東京では有名な本屋さんの閉業が記事になり、日本各地、古くから続く小さな本屋さんの存在が風前の灯になりつつあると聞く。
伝統は、守ることを意識しはじめた途端に、本来の意味での伝統ではなくなる。だから、「本を守ろう」とは言いたくない。思いたくない。自分が本を好きで読み続けられればそれでいいじゃないか、と思う。でも今、それさえ、なのだ。そんな自分がさびしい。早くこの忙しさを抜け出して、本屋さんに駆け込み、(早く読みたい!)その衝動を取り戻したい。そう思える本に出会いたい。でも本心からそう思っているのか、それともそう思い込もうとしているのか、それがわからない……。
と、ここまで書いたその日の夕方、髪を切りに街に出たついでに、予約の時間まで少し間があったので商店街の本屋さんに立ち寄った。子どものときから通っている古いお店だ。昔からずっと変わらず、棚のセンスがいい。ぶらぶら店内を歩いて、「アート・美術」の棚に気になる本を見つけ、ふと気づいた。「読む」ひまはなくても、本を「見る」ことはできる。そう、別に本はいつも「読む」必要などないのだ。見て楽しめれば、それでいいのだ。ほんの数分でも、数秒でも。
「HAND BOOK:大原大次郎 Works & Prosess」と最新号の「idea アイデア(405/特集 世界を覗くグラフィック)」を買った。どっちもめちゃくちゃ眺めて楽しい。本を手に持って、ページをめくり、(こういうのいい!めっちゃいい!)素直にそう感じた。読むことができなくたって、素敵な本には巡り会える。きっとまたいくらでも本を好きになれる。
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BOOK INFORMATION
「本とともにある、なにげない日常」を、ちょっとしたユーモアで切り取る、本にまつわる脱力エッセイ『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』11月25日発売。>>詳しくはこちら
藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』
issuance刊/定価1,760円(税込)