Essay
ほどよさと本
#77|文・藤田雅史
夏の終わりに本屋をうろうろしていたら、角川文庫の夏のフェアの端に「100分間で楽しむ名作小説」なるシリーズを見つけた。
POPのキャッチコピーには「あなたの100分をください。」とあり、薄めの文庫本が、可愛くて上品な絵柄の新装カバーにくるまってこじんまりと並べられていた。立ち止まってよく見ると、夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、谷崎潤一郎といったお決まりの文豪ラインナップに加え、ミステリーから江戸川乱歩、横溝正史、宮部みゆきなんかも並んでいる。その重厚な組み合わせで、短篇でも長編でもなく、中編を読ませる、という発想に興味を惹かれた。なにより「100分」という切り口が新鮮だった。
まだ一度も手に取ったことのない恒川光太郎の『夜市』を試しに買って帰り、翌朝、スタバでお茶を啜りながら読んだ。面白かった。読後感、というのだろうか、読み終えて本をとじ、マグカップの底に残ったお茶を飲み干したとき、やけに気持ちがよかった。なんだろう、このほどよい気持ちよさ、ほどよい満足感。
それからというもの、このシリーズをほぼコンプリートしたあとは、中編小説を毎日一本読む習慣が身についた。朝、自分の事務所の本棚から一冊抜いてスタバに持ち込み、最初から最後まで一気に読み終えるのだ。
中編というのは、定義がはっきりしない。短編でも長編でもない、その中間の、実にざっくりとした曖昧なくくりだ。僕の場合、本のページ数にしてだいたい80ページから140ページ程度のボリュームのものを「中編」として選んでいる。べつにタイムトライアルをするわけじゃないから「100分」を目標にして読むのではない。時間は気にせず、小説の世界に没頭できる自然な速度で、一時間から一時間半くらいで読み終える。このルーティンが、結構いい。
短編小説のもつ切れ味の鮮やかさとスピード感、緊張感、長編小説の語りの安定性とどっしり感をどちらも兼ね備え、かつ「ちゃんとある一定の長さで終わる」そのまとまり感が好きだ。中編小説は、たぶん、勢いでだけ書いては成立しない。漫然と書き続けるのでも成立しない。ある程度の尺と枠組みの中できちんとひとつの世界をまとめ、かつ美しく仕上げる、それができる小説家の理性に、技術に、読んでいて安心する。そう、僕にとって中編小説の魅力は、その安心感に身を任せられるのがいい、ということなのかもしれない。
例えると、なんだろう、世の中にはせっかちですぐにイライラする人がいる。反対に、のんびり屋さんでいつもだらだらする人がいる。そのどちらでもない、普通の人と接する感じ。極端ではなく、かつ、節度のある、空気を読んで場の中心でいられる人、そういう人たちと普通に話しているような感じ、といえばわかってもらえるだろうか。わかってもらえないだろうか。そういう人たちと接すると、疲れない。中編小説も、よい作品は読後の疲れをほとんど感じない。
なにごとも、ほどよい、っていいよな、と思う。全力投球、一生懸命、がむしゃら、そういうのも大事だけれど、過ぎたるは及ばざるが如し、という言葉もある。ものごとをある程度のところで切り上げるタイミング、うまくまとめ上げるバランス感覚、理性、知性、心の余裕、そういう「ほどよさ」を、人生の折り返しにさしかかった今、中編小説に毎日触れて感じているこの日この頃。
というわけでこの原稿も、このあたりでほどよく短めに終えることにします。ちゃんちゃん。
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BOOK INFORMATION
「本とともにある、なにげない日常」を、ちょっとしたユーモアで切り取る、本にまつわる脱力エッセイ『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』11月25日発売。>>詳しくはこちら
藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』
issuance刊/定価1,760円(税込)