Essay
ルールと本
#86|文・藤田雅史
先日、仕事のミーティング中に、本の扱い方の話になった。全員で回覧する資料の本を僕がテーブルの上にどすんと置き、「この本を二週間かけてみんなで回してめくってね」と言ったのが発端だった。
ミーティングの参加者は七人で、僕以外のメンバーは全員年下。二十代も三人いる。本は買ったばかりの新品だった。結構高い。四千円近くする。きれいで高価な本を前にすると、人は萎縮する。それが他人のもの、特に年長者のものとなるとなおさら丁寧に扱わなきゃと思い、思うがあまり、触れるのをためらったり、必要最低限しかページをめくらなかったりする。気持ちはわかる。でもそれでは困る。しっかりページを開いて、本の扱いなど気にせず、その本からたくさんのことを吸収してほしい。
「気をつかって、恐る恐る扱わなくていいからね。汚れたり、ページに折り目がついてもいいから、しっかり中身見て、読んでね」
そこから、本の扱い方についての雑談がはじまった。まず、僕が家ではいつも風呂で本を読むと言うと、メンバーは、「わかるわかる」と同調する人と、「そんなのありえない」という顔をする人にくっきり分かれた。「その風呂って、家族で何番目に入る風呂ですか?」と妙な角度からの質問も飛んできた。「あ、それはもしかして、湯気が立ちこめる風呂でも読むのかってこと?」「そうです。僕は〜」と、話がどんどんつながっていく。
せっかくだから、出たばかりの『ちょっと本屋に行ってくる。2』の原稿でも書いた、借りた本の扱い方について話題を振ってみた。人から借りた本を読むとき、表紙のカバーを外す派か、それとも外さない派か。すると若いSさんが手を挙げた。彼女は、外す外さない以前に、その本のカバーの上からさらに自前のカバーをかけて読むという。
「本屋さんでその本屋のカバーかけてくれるじゃないですか、あれをとっておいて、借りた本にかけるんです」
「あー、なるほど。いつも本屋さんでカバー断ってるから、その方法は思いつかなかった」
Sさんはさらに言う。
「本の上に、飲みものを平気で置く人いるじゃないですか」
「マグカップとか、ペットボトルを、ってこと?」
「そうです」
「いるね。僕も普通に置くけど」
「許せないです」
「えっ」
「本に対する冒涜です」
みんな、本の扱いに関しては、それぞれ持っているルールが違う。信仰が違う。その雑談はとても面白かった。
以来、人と話していて話題に困ったときなど、ときどき、その人が本をどのように扱うか訊ねている。一冊一冊の本を宝物のように扱う人がいれば、積んだ本を腰掛けにしてその上に座って放屁しても平気な人もいる。人から借りる本については、潔癖症なくらい、扱いが丁寧に、神経質になる人がいる一方で、「汚されるのが嫌なら、そもそも本、他人に貸すなよ。びくびく読むくらいなら借りるなよ」という人もいる。人の数ほどマイルールがあり、もちろん、そこに正解なんてものはない。
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そう、本の扱い方にはルールがない。
法律や条例で猥褻な本を取り締まるきまりがあったり、捨てるときはできたら古紙回収に出しましょう、くらいのきまりがあったりはするけれど、自宅で個人が本そのものをどう扱うか、それを規定するきまりはひとつもない。ただのモノ、ただの印刷物だから当たり前なのかもしれないけれど、世の中にこれだけ大量の(人間の数よりもうんとたくさんの)本が存在して、それぞれに何かしら主張しているのに、社会のルールを何も持たないなんて。
僕はどちらかというと、乱雑に扱っても気にしないタイプだ。本へのリスペクトはもちろんあるけれど、過度なセレブリティ待遇には興味がない。読むときにカバーを外したままそのカバーをどこかにやってしまうことなんてしょっちゅうだし、折り目も気にしない。なんなら自主的に折っている。実用書、ビジネス書などは、本の上に平気で鉛筆や蛍光ペンを走らせる。
ときどき、手に馴染んだ文庫本を手にとって、その肌触りを、まるで自分の肌の一部のように感じるときがある。自分の一部のように感じる本。自分の身体が自分のものであるならば、その本の扱いも、やはり自分で決めるものだろう。
人間より先に法がある、ということはない。そのことを、本は知っている。
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BOOK INFORMATION
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藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。2 ブック・タワーズ・メガシティ』
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