Essay
訃報と本
#92|文・藤田雅史
正月早々、訃報なんて、と思われるかもしれない。身近な誰かが最近亡くなったというわけじゃない。本についての原稿を書こうと思ったら、このテーマがふと思い浮かんで、たまたま、掲載が正月二日のこのタイミングに重なってしまっただけである。
人間、生きている限りいつかは命を終える。それが早い人もいれば遅い人もいて、そのタイミングが具体的にいつなのかは誰にもわからない。そのわからなさを「運命」と呼ぶのであれば、人は運命から逃れることはできない。
年末になると(あるいは年始の)新聞紙面などでよく、「今年(昨年)亡くなった有名人」の特集が組まれたりする。2025年も、誰かの功績が、人生が、振り返られる。名優・仲代達矢が亡くなった。スポーツの世界で一時代を築き、その競技の代名詞ともなった長嶋茂雄、釜本邦茂、尾崎将司が亡くなった。
さて、有名人や著名人が亡くなると、本屋の売場の一角に追悼コーナーができることがある。その前でしばしば、立ち止まる。四年前、西村賢太が亡くなったときは、独特の濃ゆい色彩を放つ表紙のラインナップを眺めながら、ああ、もう新刊が読めないのか、と淋しくなった。
立ち止まるのは、もともと好きな人の場合に限らない。別にそんなに好きじゃなかった、という有名人でも、ふと足を止めてしまう。亡くなった途端に深く知りたくなる、このタイミングで「出会った気になる」のは、どういう心理なのだろう。
坂本龍一が亡くなったとき、YMOもテクノもアンビエントな音楽にもそれまでほとんど興味を示さなかった自分が、サブスクで坂本龍一の入門用プレイリストを延々、これでもかと車の中で流していた。急にウェルカムな気持ちになり、音楽が自分の胸に自然に染みこんできた。本当に、自然に。
本屋の売場の一角に並べられた坂本龍一の著書も、もちろん買った。まず『音楽は自由にする』(新潮文庫)を読み、『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社)は発売を待って読んだ。
谷川俊太郎もそうだった。詩集は何冊も持っていたけれど、エッセイにはそれまで手が伸びなかった。でも亡くなってから新刊文庫として並べられた本に視線が吸い寄せられ、手にとった。急に読みたくなった。
その人がもういない、という事実は、本人が残した作品を、生の時間のなかで志向やかたちを変えながら流れゆく一連の創作物としてではなく、石碑のように、その存在をこの場に、この時間に、固定化させる。ありていに言えば、「過去にする」。そうなってはじめて、手にとってみたくなる感覚、手にとりやすくなる感覚というのは、確かにあるような気がするのだ。(この現象を僕は「妙なミーハー」と呼んでいる。)
亡くなった、という事実をきっかけに、歴史の一部として存在が固定されて、ようやく手を伸ばせる感覚。亡くなったご本人は、「だったら生きているうちから触れてくれよ。読んでくれよ。聴いてくれよ」と苦笑いするかもしれないけれど、そんなふうに本屋では、「喪失」が「新たな出会い」と直結することもある。
そう思うと、本屋にその人の本がある、というのがどれだけ意味のあることか。いつか、(ずっと先の)遠い未来、自分も本屋さんで生き続けていたい。そんなことを夢見る令和八年の正月である。
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BOOK INFORMATION
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issuance刊/定価1,870円(税込)
