Essay
シャーペンと本
#95|文・藤田雅史
最近、本を読むときに短いシャーペンを持つようになった。気になった箇所、記憶しておきたい箇所に線を引くためだ。小説を読むときはそういうことはしない。主に、新書や実用書、人文系の本の類である。つまり、味わったり感じたりするための本ではなく、知識として理解したい本の場合である。
これまで僕は、本に書き込みをしない主義を通してきた。本を読んでいて「ここ、ここ、大事」と思っても、ページの端を小さく三角に折るか、透明付箋をピッと貼るくらい。直接書き込みをするのは、あまり品のいいことではないと思っていた。(※そのへんのことは『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』収録「犬の耳と付箋」の項参照)
でも、最近は線を引いている。引きまくっている。「ここ、ここ、大事」と思ったら、即座に、躊躇なく、文の右側にスーッとシャーペンを滑らせる。複数行にわたる場合は文章ごと、段落ごと、枠線で囲ったりする。ときには、その脇に小さな字でメモを書き込むこともある。
やはり、手を動かし、頭の中でしっかり文章を反復する方が、物覚えにはいい気がする。それに、線を引いておけば、読み終わってからページをぺらぺらとめくり返したときも、ドッグイヤーや付箋より確実に、瞬時に、「ここ、ここ、大事」の場所に視線が行きやすい。
大事なところは、できるだけ一回の読書で記憶したい。ページから脳味噌へと、一回でコピペを完了したい。多少、本の保存価値や美しさが損なわれたとしても、「頭の中に入ること」の方を優先したい。
すべては「記憶の定着」に尽きるわけだが、ただ、なんで急にそんなことをするようになったのか。その本質的な動機について思い巡らしてみると、それはやはり、哀しいかな、加齢の自覚なのである。
これまで、本というのは「何度でも読み返せるもの」だと思ってきた。「今日、読んでわからなくても、いずれまた読み返せばいいや」と。でも四十代も半ばを過ぎ、気づいてしまったのだ。本というのは、よほど気に入ったものでない限り、必要に迫られない限り、「結局、読み返さない」と。
人間はある程度の年齢に達すると、人生の時間が有限であることを知る。もちろん、理屈としては若いときから当たり前に知っている。日本人の平均寿命、健康寿命、いろんな情報や数字は常に頭に入っている。でも、体感として、肌感として、「ああ、もう人生の半分を過ぎてしまったんだ」と感じられるのは、実際に折り返しのコーンをぐるりと回ってからである。
そうなると、「また読み返せばいいや」とは言っていられない。時間はどんどん失われていくのだ。今、理解できることは、今のうちに理解しておかないと、もう永遠に理解できないかもしれない。とはいえ、本を読んで一度でその一冊のすべてを理解できるほど、僕は頭のいい人間ではない。だからシャーペンを手に、あがく。線を引きながら、もう一度その文章を読む。
ちなみに、シャーペンは無印良品の「木軸六角シャープペン」の短いやつを使っている。シャーペンやボールペンなどの筆記用具は、気づくとどこかに消えているものだ、ということは、人生を半分生きた経験からとうにわかっているので(苦笑)、同じ商品をごっそり買い込んで、日常生活の中、枕元、デスク、ソファのそば、車の中、どこにでもあるようにしている。(本当は風呂にも常備しておきたいが、さすがにそれはできない。)
複数の本を並行して読むときは、それぞれの本に一本ずつ挟んでいる。長さが12センチほどなので、文庫本でも邪魔にならない。ついでにいうと、シャーペンはしおり代わりとしても最適だ。(紙製のしおりと違って平ぺったいものではないから、どうしてもページに跡が残ってしまうので、本を綺麗に保存しておきたい人には向かないだろう。冒頭にも書いたが、僕は小説などの文芸書を読むときはシャーペンを持たない。小説は、記憶するものではなく、その瞬間の出会いを楽しむものだと思うからだ。小説の本は、できたら綺麗な状態でとっておきたい。)
そう、年をとると人はシャーペンだけじゃなく、そういう自分だけのこだわりも持つようになる。
■

BOOK INFORMATION
「本とともにある、なにげない日常」を、ちょっとしたユーモアで切り取る、本にまつわる脱力エッセイ『ちょっと本屋に行ってくる』シリーズの最新刊!『ちょっと本屋に行ってくる。2 ブック・タワーズ・メガシティ』6月13日発売。>>詳しくはこちら
藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。2 ブック・タワーズ・メガシティ』
issuance刊/定価1,870円(税込)
