Essay
はさむものと本
#03|文・藤田雅史
読みかけの本に挟むものがないと困る。しおりがあるじゃないか、と冷静に言い返されそうだが、しおりがないから困っているのだ。
よくしおりをなくす。百均のビニール傘と同じレベルで、しおりはいつのまにか手元から消えている。どうせなくすとわかっているから、しおりをわざわざ買うようなことはしない。たいていは買った本に最初から挟み込まれている細長いしおり(出版社のロゴや宣伝の入ったやつ)や、一色刷の図書案内的なリーフレット、読者アンケートのハガキ、カバーの帯などを、ここまで読んだという目印として使うのだけれど、どうせ読み終われば不要になるとわかっているから、どれもぞんざいな扱いしかしない。本を持って移動するうちにどこかへやってしまうことが多く、買った本を書店の袋から出したときに袋と一緒にまとめてゴミ箱に捨ててしまうこともある。なかには、本を買ってもそれらがついてこない場合もある。
問題は、しおりをなくしたり、そもそもついてこなかった場合、読みかけの目印として本に何を挟むかだ(もちろん、本に「スピン」と呼ばれるしおり紐が垂れ下がっているハードカバーなどの場合は除く)。
本の優れたところは、それなりに平ぺったいものならなんでも挟めることだろう。外出先で読みかけの本を閉じるとき、よく使うのはレシートだ。フリーランスで仕事をしている人間にとってレシートは命の次に大切なもので、でも整理がおぼつかないから、財布の中に常時たまっている。レシートがない場合は、どうでもいいような食堂の割引券。あるいはそこが飲食店なら紙ナプキンとか、箸袋。いまはもうICカードを使うのでこんなことはあまりないが、電車に乗っているときに切符を挟むこともあった。公園や河川敷などの屋外なら、落ちている葉っぱや草を、風流を気取ってしおりがわりにしたこともある。
家で本を読んでいる場合はどうか。よく使うのは食品パッケージの一部だ。例えば読書をしながら「果汁グミ」や「甘栗むいちゃいました」を食べていたら、切り口からパッケージの上部を横断するようにして切り離したあの切れ端の部分。サイズ感もちょうどいい。アイスのへらが入っている薄い紙の袋や、ストロー袋もけっこう使える。ちょっとごわつくが、「パイの実」などのパッケージの箱の、ばばばばと指でもぎ取る切り口の部分とかもいい(←なんという名称なのかわからない)。それからティッシュペーパー。チラシの切れ端。エアコンの薄型リモコン。清涼飲料水のアルミ缶のプルタブを挟んだこともあった。微妙なところでは、バナナのあのへなへなした白い筋。さすがに抵抗があったが、そのときはたしか風呂でバナナを食べながら文庫本を読んでいたので、細長くて本に挟めるものといえばそれ以外に選択肢がなかった。次にその本を開いたとき、バナナの白い筋がどうなっていたか、ページにどんな痕がついていたか、まったく記憶にないので、もしかしたらいまも本棚のどこかで、それが押し花ならぬ押しバナナになっている可能性もある。
そう、本に挟むもの、にはもうひとつの問題があって、それは挟んだことを忘れてしまうことだ。大事なメモを挟んだりすると、挟んだことを忘れてあとで後悔することになる。人に見られたくないメモを挟んだままうっかり本を誰かに貸して恥ずかしい思いをするということも。
少し前のことだが、家の整理をしていたら、昔の引越ダンボール箱から一冊の本が見つかった。それはノンフィクションライターの著者が、ちょっと不幸な境遇の人々を取材して聞き書きのような体裁で綴ったルポルタージュで、僕が大学生のときに買った文庫本だった。お、この本ここにあったんだ、懐かしいな。と軽い気持ちでぺらぺらめくってみると、なかからメモ帳の切れ端のような紙片がひらりと落ちた。
「Sへ カギあけっぱでぶっそうですが、二日酔いキビしいので帰ります。何かあったら連絡して。ほほえましい寝すがたに安心した ○○」
それは、はじめて見る書き置きだった。S、という名前を目にした途端、水道の細い蛇口から勢いよく水が飛び出すように、ぶわわわっと記憶が甦った。
まだ東京に住んでいたとき。十数年前の話だ。Sというのは大学の終わり頃に知り合った同い年の女友達で、当時、お互いの部屋をときどき行き来する仲だった。僕はSのことが好きだった。だけど彼女は僕の気持ちをわかってはいるものの、けっして僕が求めるようにはこちらを振り向いてくれない。Sと僕はそんな関係だった。
あれはふたりともまだ社会人二年目の夏のことだ。Sにはそれまで何度もフラれていたけれど、そろそろもう一度告白を、なんて考えていたとき、突然、部屋にSが遊びに来たことがあった。一緒にお酒を飲んでいるうちに夜が更けて、でも彼女はいっこうに帰る素振りを見せない。これは泊まっていくつもりなんだなと思って、僕は素直に嬉しくなった。でもちょっと様子がおかしいので、「ところでS、何かあったの?」と、いちおう訊ねてみた。何かあったに違いなかった。そうでなければ、Sが自分から僕の部屋にやってくることはなかったから。でもどうせ仕事上の悩みとか、そんなとこだろうと高をくくっていた。
ところが彼女の口から出てきたのは、僕ではない男との恋愛で直面した、重大な、つらい問題だった。詳しく書く気はないけれど、聞けばそれは確かに、彼女にとっての重大でつらい、親にも話せない大問題に違いなかった。あまりのことに、「ひとりでいたくないから他の子に連絡したんだけどダメだったからここに来た」と、Sは言った。何番目かの妥協案として、僕の部屋にやってきたのだ。
そこで大泣きしたのは、彼女ではなく僕の方だった。Sには男がいたという事実。そしてもうひとつ、彼女にとっての僕は、肌寒いときにたぐり寄せる毛布のような、ただの慰めのためだけに存在する気安い男友達でしかなかったという事実。そろそろまた愛の告白を、と思っていた僕にとって、それは二重に哀しい出来事だった。彼女の話を聞いて自尊心がズタズタになった僕は、彼女を置いて部屋から逃げだし、東京の町を朝までさまよった。
その文庫本をSに貸したときの記憶はない。返してもらったときの記憶もない。でも、その本を読み終えた彼女が、その夜から数ヶ月後に「この本借りてよかった。自分よりもっとつらい人がいると思うだけでちょっと楽になった」と言ったことだけは、おぼろげに覚えている。
Sは僕の部屋からその本を持ち帰り、読んだのだろう。その後、幾日も続いたつらい夜を乗り越えるために、今度は本当に仲のよい友達を部屋に呼んで、朝まで一緒にいてもらったりしたのだろう。ちゃんと話も聞いてもらったのだろう。Sはいつのまにか眠りにつき、目覚めたときにその友達が残した書き置きを読んだ。そしてどんなタイミングかはわからないけれど、その紙片をあるとき、僕の貸した本に、しおりがわりにふと挟んだ。あらすじはそんなところだろうと思う。その書き置きの紙片が、十数年経って出てきたのだ。
驚くべきは、それを発見した僕が、その筆跡と最後に記された○○の名前が女性のものであることを確かめて、ホッと安堵したことだ。まるで十数年前の自分が見つけるみたいに、大きなため息をついて。いまになって思えば、Sに限らずどんな女性にとっても、付き合ってもいない男友達の扱いなんてそんなものだ。なのに勝手に傷ついて涙を流し、激しく取り乱し部屋を出て行ってしまった自分が恥ずかしい。あのとき、ずっとSのそばにいて、彼女の求めるとおりにひと晩をなんとかやり過ごすための毛布の役割をしたかった。だけど当時はそれができないくらい、僕はSのことが好きだった。そして哀しいかな、男としての器の小ささや嫉妬深さは、どうやらいまもたいして変わってないということが、その紙片を手にしたとき、わかってしまったのだった。
あの夜、まったく役に立たなかった僕のかわりに、Sに貸したこの本が彼女の心をほんの少しでも励ますことができていたら、とちょっとだけ思う。
えっと、何の話をしていたんだっけ。
そう本に挟むもの、の話だ。挟むものがないときも困るが、しおりのかわりに挟んだものをうっかり忘れたりするのも困りもの、という話をしたかったのだ。
ところでその文庫本に挟まれていた書き置きの紙片は、なんだか捨てるのがためらわれて、そのままその本に挟んでおくことにした。いつかまた開くかもしれないし、永遠に開かないかもしれない。しおりは時間の目印だ。人生のちょっとした思い出もまた、しおりのかわりになったりするらしい。
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