Essay
待ち合わせと本
#05|文・藤田雅史
待ち合わせが好きだ。それも夕方、日の暮れる時間帯の待ち合わせが。できれば人通りの多い場所がいい。仕事帰りで家路を急ぐ人々をぼんやり眺めながら、約束の時間のほんの少し前に着くように、その場所に行く。なるたけ身軽な格好で、でもほんの少しだけ、いつもよりいいものを着て。相手が時間に遅れても平気なよう、肩がけのウエストポーチやコートのポケットに文庫本を一冊しのばせる。宵の口の街のあかりは惚れ惚れしてしまうほど美しいし、空の群青色のグラデーションも見事だ。特にこれから本格的に迎えようとしている秋は、まさに夕方の待ち合わせに最適な季節だと思う。
子ども時代、家族で外食をするときの待ち合わせ場所は本屋だった。我が家は父と母と僕の三人暮らし。家族揃って家から出かけるよりも、その時間まで各々勝手に動いて本屋で集合、みたいなのが自由で好きだった。
地方都市の繁華街の、その最も人の往来のある交差点の角に、その本屋はあった。市民でその本屋の存在を知らない人はいなかったと思う。場所がいい分、面積は昨今よく見かける大型書店とくらべるとずいぶん狭く、父や母を見つけるのに苦労することはなかった。父に声をかけると、「今日は何か欲しいのあるか?」と聞かれて、よくマンガの単行本を買ってもらった。「まんが道」も「ドラゴンボール」も「こち亀」も、小学生の僕が集めていたマンガはほとんどその店でコンプリートした。父の手から難しそうな単行本と週刊誌と一万円札を受け取り、僕がレジでお金を払うこともあった。「上様で領収書をもらう」ということを、僕はこの店で覚えた。
高校生の頃になると、家族で外食をした記憶はあまりない。ただその本屋は変わらずに、僕にとっては「待ち合わせの場所」だった。大学生になって親元を離れて上京し、その本屋を利用することはほとんどなくなったけれど、たまに帰省したとき、友達との待ち合わせに使うのはやっぱりその本屋だった。仲間内には遅刻の常習犯もいたので、立ち読みしていればいくらでも時間がつぶせて都合がよかった。そういえば、妻との最初のデートの待ち合わせもその本屋だった。
本屋での待ち合わせは性格が出る。本が好きなやつは、だいたい約束の時間よりうんと前に着いて棚のあいだを歩き回って楽しんでいる。それほど本好きではないけれど時間に正確なやつは、たいてい約束の時間に雑誌のあたりをうろうろしている。普段まったく本を読まないやつは週刊漫画誌を立ち読みしている。数人で待ち合わせをするとき、誰かひとりが時間に遅れるとわかると、一度集まってからまた各々好きな棚にばらばらと散らばっていく。どの棚を目指すかで、それぞれのキャラクターが見えて面白い。
本屋はなにかと便利だ。待ち合わせてから行く飲食店が決まっていないときは、情報誌を立ち読みすることで店選びができる(スマホのない時代だった)。トイレも行けるし、新刊本や雑誌でトレンドをチェックできるし、なんなら勉強だって立ち読みでできる。とにかく本屋にいるだけで時間を無駄にすることはない。
そんなふうに待ち合わせでばかり利用していたので、店に足を踏み入れた回数に比べると、実際に本を買った回数はかなり少ない。というかこれから食べたり飲んだり遊んだりするのだから、本を買うとむしろそれが邪魔になる。遊ぶ前に現金を減らしたくないという気持ちも働いていたと思う。正直なところ、まだ20代だった僕は、店を利用したからには小額でも何かしら買物を、みたいな(コンビニのトイレを借りたらペットボトルの一本くらいは買う的な)配慮まで思い至らなかった。
そしてそういう人は、きっと僕だけではなかった。あの本屋を待ち合わせに使う人はたくさんいた。そしてどうなったか。その本屋は閉店した。新聞などではいかにも「市民に愛された街の本屋が惜しまれての閉店」というふうだったが、僕と同じように、「市民に愛された街の待ち合わせ場所が惜しまれての閉店」と感じた人も少なくなかったはずだ。場所がいい本屋の、場所がいいゆえの宿命でもある。
店内のレイアウトは今でもはっきり思い出せる。描けと言われれば案内図だって描ける。レジは2カ所にあった。階段の踊り場に狭いトイレがあった。文庫の棚の奥に児童書があった。懐かしい。寒い冬、コートに身を包み店に入ると暖房が効いていて、そのぬくもりと本の匂いに肩の力が抜けて身体が弛緩した。眼鏡がよくくもった。夏は冷房が涼しくて、汗が一気に引いていった。用もないのに涼しさ目当てにその本屋を通り抜けたこともあった。春は雑誌の表紙の春色がまぶしく、秋は秋で読書の季節らしいどっしりとした落ち着きがあって好きだった。で、何も買わずに待ち合わせだけして店を出る。悪いことしたなと今になってちょっと思う。
そんなことを思い出すのは、今夜、待ち合わせの約束があるからだ。場所は、駅に隣接した大型書店の一階。帰りのタクシー代をキープしておきたいので、たぶん本は買わない。ごめんなさい。
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