Essay
爆買いと本
#14|文・藤田雅史
最近、書店に行くのが楽しい。先月の原稿を読んでくれた人は、ははあ、自分の本が並んでいるからって調子に乗ってやがるな、と先回りするかもしれないが、そうじゃない。むしろ「今は平積みされているけど明日には棚の奥の奥に追いやられているかもしれない…」「誰も買わなかったら返本か…」「理解に苦しむような分類をされてんじゃないか…」といった不安の方が強くて、(もちろん自分の本が書店に並ぶことは純粋に嬉しいけれど、)それに関しては手放しで「楽しい!」という感覚ではない。ハラハラする。ヒヤヒヤする。
書店が楽しいのは、ようやくスッキリと本を楽しめる状態に戻ったからだ。小説の原稿を書いている間は、何からも影響を受けないように、意識して自分という殻に閉じこもることに集中してきた。なるべく書店にも足を向けず、Amazonも開かず、四ヶ月くらいずっと読書を我慢してきた。小説家として手練れの域に入った作家さんなら、「自分の書くもの」と「ひとの書くもの」の間に明確な線を引けるだろうけれど、まだ自分はそうじゃない。だから、本を買わないようにしてきた。読まないようにしてきた。
で、脱稿し、無事に上梓の運びとなり、「本、ダメ絶対」の呪縛から解放された。もう何を買ってもいいし、何を読んでもいい。ただ、いきなり純文学の長編小説を読むのは刺激が強すぎてげろげろ吐いちゃうかもしれないので、最初の一冊はできるだけライトなものを選んだ。
元木大介「長嶋巨人 ベンチの中の人間学」。素晴らしいリハビリになった。それから嶽まいこ、渋谷直角、東村アキコのマンガで助走をつけて、NHKスペシャル取材班によるグリコ森永事件のノンフィクションが文庫化されていたのでそれを数日かけて読了。さて、そろそろ小説といくか、と満を持して金原ひとみの新刊。武者小路実篤の再読を挟み、今度は内田樹の対談本。グリ森事件関連で、ベストセラーになった塩田武士のミステリー。堀江貴文の健康本。…とまあ、どうですこの乱読っぷり。解放感が表れているでしょう。書店の平積み台から手当たり次第に本を買って帰りました、みたいな。
今、本当に書店に行くのが楽しい。秋葉原の中国人観光客みたいなテンションで書店の自動ドアを入っていく。財布の中の現金なんて気にしない。カードで買う。爆買い前提だ。これがもし、家電とか服とか食事だったらこうはいかない。いきなり来月、生活が困窮する。
「好きなものを買うぞ!」「いいものを買うぞ!」と意気込んで買物に出かけるとき、服だったらそれなりの店で普通に選ぶと何万円もかかる。食事だったら、美味しいものを食べようと思えばやはり一食あたり数千円から場合によれば一万円以上かかるし、家族で食べに行けばとても一万円じゃきかない。子どもがおかわりしたオレンジジュース、ゲッ、一杯700円もすんのか!(飲みものだけで、子どもふたり×二杯=2,800円+税)みたいな。でも本は安い。ほとんどの単行本が一冊千円台だし、文庫は数百円。いくら爆買いしようと思っても、本は重いから何十冊も持ちきれないので、身体能力的に買い過ぎることはない。結果、ものすごくリーズナブルな爆買いで済む。名作を買おうと思っても、インテリアショップならウェグナーのYチェア8万円、服屋さんなら名作デニムで数万円、スニーカーショップでニューバランスの定番を買っても1万円〜2万円台だけれど、書店で夏目漱石「こころ」を買えば新潮文庫でたった400円だ。安っ。
そんなわけで書店での爆買いが止まらない。多少買い過ぎたところでうしろめたさを感じることもない。気分転換の、あるいはストレス解消のショッピングは、書店こそがふさわしい。書店、最高!…あ、もしAmazonで爆買いをされる方、いらっしゃいましたら拙著『ラストメッセージ』もぜひポチッとよろしくお願いします。(←最後は宣伝)
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