Essay
冒険と本
#16|文・藤田雅史
まだ小さくて、ひとりでは眠れなかった頃、毎晩、枕元で母に絵本を読んでもらっていた。福音館書店の「こどものとも」だったと思う、毎月新しい絵本(中綴じ製本のやつ)が送られてきて、それ以外にもたくさん町の本屋で買ってもらったから、家の本棚には絵本がたくさん揃っていた。
絵本の世界で、子どもたちはよく、冒険をする。宝物を探しに海の向こうへ、見たことのない生きものに出会える不思議の国へ、あるいは空の彼方へ、森の中へ。ドラえもんやジブリの映画に夢中になるずっと前から、空想の世界は親しみのあるものだった。でもそんな冒険の絵本が、僕は小さいときどうも苦手だった。
絵本の中ではすべてが自由だ。動物は人間と同じように言葉を話し、人間は鳥のように空を飛べる。主人公は敵を倒す不思議な力を持ち、ドラゴンだって幽霊だって魔女だってブリキのロボットだって出てくる。だけど、別に無理して冒険に行かなくていいじゃないか。心の中でそう思っていた。そんな危ないところに冒険に出かけたら、もう二度と帰ってこられないんじゃないか。そのことが怖かった。
海に出たら船が沈むかもしれない。空を飛んだら落ちるかもしれない。動物に食い殺されるかもしれないし、おばけや幽霊やあるいはもっと恐ろしい人間を刺激して、うっかりあっちの世界からこっちの世界に引き連れてきてしまうかもしれない。そんなふうに、現実と空想の境界線が、なんとなくわかっているつもりではいるけれど、ぼやけて曖昧になってしまうことがよくあった。
それを都合よく「想像力が豊か」と表現することもできるかもしれない。でもやっぱりただの「ビビり」だったと思う。本当に想像力というものが成熟しているならば、現実と空想の境界線もまたはっきり想像できたはずだから。月明かりの窓の向こうに映る庭木の葉の影に怯えて、おねしょをした夜は数えきれない。うっかり布団を出てしまったために悪魔にさらわれてどこかに連れて行かれるくらいなら、おしっこで濡れたままの不快感の方が全然ましだ。
だから僕は冒険譚よりも、平凡な話が好きだった。命に危険のないほのぼのとした話。例えば見知った乗り物が町を走る話や、動物たちと一緒にホットケーキを作る話や、ちょっとまぬけな王さまのドタバタ劇が。冒険らしきものは、せめて小さな消防車が火事場で活躍するとか、坂の上の商店にひとりで牛乳を買いに行くとか、その程度でじゅうぶんだった。
すっかりいい大人、と言って差し支えない年齢になってしまった今、現実と空想の区別は明確だ。だってそうじゃなきゃ社会生活が送れない。世界の広さはGoogleMapの中にあって、いくら頑張っても時計の針を逆回りにできないことを知っている。死んだ人はもう生き返らないし、空を移動したいときは、お金を払って空を飛ぶ機械の力を借りるしかない。
つまらない人間になった、とかそんなことを言いたいんじゃない。普通に、普通の暮らしができる普通の大人になった。つまらないどころか、めでたい。どんなに怖い物語に出会っても、もうおねしょをする必要がないのだから。夜中でもちゃんとトイレに行ける。ある時点から、僕は冒険を、自分の暮らしている世界とは違う「物語」という枠の中で受け入れられるようになったのだ。何かを失うリスクに恐れおののいていた幼児は少年になり、劇場版ドラえもんを見ながらいろんな世界へ冒険するようになった。
で、先日。いつのまにか二児の父となり自分の子どもに絵本を読み聞かせるようになって、「こわい本はいやだー」とぴったり身体をくっつけてくる四歳の下の子の背中をなでながら、ふと思った。小さな子どもに冒険の物語を読み聞かせることは、別に勇敢さや探究心を教えるためにあるわけではない。大きな夢や好奇心を育むためでもない。そうではなくて、たとえどこへ行ってもちゃんとあなたを守る人がいるよと、帰ってくる場所があるんだよと、そばにいて安心させてやるためではないかと。大人になると、勇気を振り絞らないといけないとき、それがどれだけ心強いことかよくわかる。
ところで、小学生になった上の子は早くも「劇場版ドラえもん」をほぼコンプリートし、いよいよ「ドラゴンボール」に夢中になっている。彼もまた、めでたく普通の大人になろうとしている。絵本が好きだった子が絵本を卒業するのは少しさびしいけれど、それ以上に、怖がらず冒険を受け入れられる「少年」に成長してくれたことが嬉しい。
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