Essay
外国の戯曲と本
#19|文・藤田雅史
まったく専門外なのだけれど、先日、ひょんなきっかけから演劇の舞台美術の仕事をした。ステージ全体の美術プランを考え、ラフスケッチのようなものを描いて、「こんな感じでどうすかね?」「こういう雰囲気の空間がいいと思うんですけど…」と主催者や演出家にイメージを提案するのが役割だ。
依頼をもらったときは「なぜ自分が…?」と思ったけれど、いろいろあって、僕で役に立つのならと引き受けた。するとすぐに戯曲(台本)を渡された。アントン・チェーホフ「かもめ」の文庫本。とりあえず読まなければイメージもなにもないので、さっそく読みはじめた。外国の戯曲なんて久しぶりだ。
数ページ読み進めて、愕然とした。内容が全然頭に入ってこない。
何がいけないのかはハッキリしていた。役が覚えられないのだ。コンスタンチン・ガヴリーロヴィチ・トレープレフ、イリーナ・ニコラーエヴナ・アルカージナ、ボリス・アレクセーエヴィチ・トリゴーリン、ニーナ・ミハイロヴナ・ザレーチナヤ、ピョートル・ニコラーエヴィチ・ソーリン、イリヤ・アファナーシエヴィチ・シャムラーエフ、ポリーナ・アンドレーエヴナ・シャムラーエワ、セミョーン・セミョーノヴィチ・メドヴェージェンコ、エヴゲーニイ・セルゲーエヴィチ・ドールン、マリヤ・イリイニチナ・シャムラーエワ…。書き出しながら思う。呪文だ。この段落を読んだ10人中10人が読み飛ばしたはずだ。
これがもし、「岡本昭三」「谷村節子」「岡本翔」「鈴木樹莉亜」「マイケル富岡」とかだったら、スッと頭に入ってくる。苗字から「岡本昭三」と「岡本翔」はきっと親子か親戚だろうと想像がつく。おそらく「岡本昭三」が父で「岡本翔」が息子。あるいは祖父と孫の可能性もある。「岡本昭三」と「谷村節子」は同年代で70代くらいかあるいはそれ以上か。もしかしたら離婚した元夫婦かもしれない。すると、昭三と節子の孫が翔で、「鈴木樹莉亜」はその恋人。名前の感じからして親は元ヤンかもしれない。ならば「マイケル富岡」は翔の恋敵といった役回り。名前をざっと見るだけで、このくらいは容易に想像できてしまう。そして名前を頼りに、実在の身近な人やかつての同級生、テレビで目にした有名人から、登場人物の顔や姿まで、なんとなく頭の中でイメージできていることに気づく。「マイケル富岡」はとりあえず実在のマイケル富岡の顔をあてはめている。
でも外国の人名は記号に近いからさっぱりわからない。ミドルネームもあるからどこが姓名かいまいちわからないし、「アンナ」と「ダニエル」みたいな比較的馴染みのあるアメリカ方面の名前ならいいけれど、これがロシア人となると男女の区別もままならない。年齢もわからない。さらに台詞の中で本名ではなく愛称で呼ばれていたりするから、これはこの人のことか? いや別人か? と混乱する。何度も何度も登場人物一覧表を見直さないといけない。せっかく覚えた役が、ただのチョイ役でほんとんど出てこないなんてこともある。
年齢とともに記憶力が…と言い訳をしたいところだけれど、そもそも学生時代から外国の戯曲が苦手だった。ただ漫然と読み進めるうち、人名を覚え人間関係を把握する前に疲れてしまう。誰が台詞をしゃべっているのかわからないから、内容理解どころか、筋を追うのもおぼつかない。眠くなる。誰が誰を愛して誰が誰を憎んでいても、別にどうでもいいじゃないか、海の向こうで勝手にやっててくれと思う。
同様の理由で外国のサスペンス小説も苦手だったけれど、そちらは小説なので丁寧に読み進めれば自然と頭に入ってくる仕組みになっている。読者にとって見ず知らずの人物をどのように登場させ定着させるかは、小説という表現手法の技術うちのひとつだからだ。でも戯曲は違う。シナリオの体裁のテキストは、そもそも舞台やドラマの設計図なので、「読む」ことを前提としていない。観客が「見る」ことで理解できればそれでよいのだ。「シナリオ文学」なるものが文学として認められないのは、きっとそれが一番の理由だろうと思う(シナリオが文学である必要はないけれど)。
チェーホフやシェークスピアといった海外の戯曲が、いちおう有名ではありつつも、クラシック音楽や西洋絵画ほど日本人に親しまれていないのは、外国人がいっぺんに出てきて混乱するからだ。逆に言えば人間関係がわかりやすいものほど、受けがいい。例えば「ロミオとジュリエット」。主要人物は、ロミオ、ジュリエット、神父さん。すごいわかりやすさだ。
だから海外の戯曲の本には、冒頭にこういうコンテンツがあるといいと思う。「マンガでわかる『かもめ』」。ほんの3見開きくらいでいいから、誰が主人公かとか、どういう人間関係かとか、とりあえずの役者のイメージとか、キャラクターがわかるマンガが。ついでに背景でその時代の雰囲気とかも描き込まれているとなおよい。
安直だ、チープな発想だ、あまりにも学がない、と言われるかもしれないけれど(そしてそういうマンガだけを集めた文学のあらすじ本も多々あるけれど)、そもそも戯曲はあくまで舞台上の物語の設計図なのだから、家を建てるとき建築家が図面だけじゃなくパースのイラストも描くように、そのくらい親切にしてくれてもいいんじゃないか。けっして作品の「文学的な」価値を落としはしないと思う。具体的な視覚表現で観客を物語に誘うことは、そもそも戯曲を成立させている「舞台」の特性でもある。
登場人物とその関係性が頭の中に入ると、戯曲は面白い。人間が勝手に動き出す。しゃべる。小説とは違って、読み手と舞台という一定の距離と空間の中に物語が凝縮されるドラマの濃密さも味わえる。それが舞台上で役者によって表現されると、さらに面白い。読んでよし、見てよし。少なくとも二回楽しめる。ちなみに「かもめ」の本番のステージは、戯曲で読むよりも数倍面白かった。
演劇を愛好する人以外で、戯曲を読む人は少ない。そのことが、僕はすごくもったいないと思う。戯曲、台本、脚本、シナリオ、ジャンルによっていろいろと言い方はあるけれど、ト書きと台詞で構成される読み物に、もう少し陽が当たるといいな。向田邦子の作品のように、本になって親しまれるといいな。最後に個人的なおすすめを。もう絶版になってしまったみたいだけれど、三谷幸喜のテレビドラマ「今夜、宇宙の片隅で」のシナリオ本は最高に面白いです。舞台はアメリカ、ニューヨーク。でも主要登場人物がたった3人で、全員日本人なので安心です。
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