Essay
歴史と本
#21|文・藤田雅史
年末に向田邦子の短編をむさぼるように読んでいたら、年が明けてから急に市川崑が監督した昭和50年代の金田一耕助シリーズが観たくなった。ぼさぼさ頭の若い石坂浩二。昭和といっても「戦後」からはほど遠く、「バブル」や「デジタル」がやってくる少し前の、歴史の教科書ではほとんど触れられない隙間のような時代。
僕は昭和55年生まれだから、その年代の記憶は、割れたガラスの破片ほどのほんの小さなものしか残ってはいないけれど、なんだろう、40歳を前にしてルーツのようなものに触れたくなったのか、向田邦子→市川崑の流れが妙にしっくりきた。
『犬神家の一族』と『悪魔の手鞠唄』をAmazonプライムで観てから、その勢いのまま『獄門島』『女王蜂』『病院坂の首縊りの家』と公開順に一気に観終えた。ついでに平成でリメイクされた『犬神家の一族』も(女中役が坂口良子→深田恭子の流れは素晴らしいと思う!)。このシリーズには「男の欲望 × 血縁のしがらみ+家父長制=業を抱えて生きる不遇の女たち」という一貫した公式があって、それが昭和20年代の戦後の舞台設定にぴたりとハマる。
「戦後か…」ひととおり観終わってから、なんとなくそんな気分になって、この冬は戦後昭和史や近現代史の本を読みふけっている。ちょうどいいタイミングでさいとうたかおの「歴史劇画大宰相」シリーズが講談社文庫から再発売されていたので、さっそく買い込んで吉田茂から岸信介の巻まで読んだ。
いつでもどこでも言われていることだけれど、近現代の歴史、特に戦後の昭和史は学校教育では「読み飛ばす」パートだ。でも、今を生きる僕らの歴史のリアルなルーツは、そこにある。戦後につくられた基本的な枠組みの中で、僕らは生活をしている。詳しいことは何も知らないままに。
真面目な高校生ではなかったので、僕の歴史の知識は中学までで止まっている。「新撰組」とか「幕末」とか「三億円事件」とか「グリコ森永事件」とか、興味のある「点」はたくさんあって、小説や映画やドラマでそれなりに詳しくなっているけれど、でも歴史全体の流れや、知識としてのベーシックのようなものが僕にはない。そのことを、30代も終わりになろうという今、ようやく実感として気づいた。
歴史は、読まなければ知ることができない。これはたぶん確かなことだと思う。学校の授業やドキュメンタリーの映像でその断片を集めることはできるけれど、自分で「読む」という行為をしないと、「知る」ことはできない。なぜなら、「過去」は誰かが語るしかなくて、語るには「書く」しかないからだ。そして語る人の数だけ、異なる歴史が存在する。それらを比較していくことで自分なりの「歴史観」ができていく。「読む」という行為を失うと、歴史は単純化して、ただの「あらすじ」に成り下がってしまう。
ふと思い出すのは、昭和が終わり、平成がはじまった年のこと。テレビで流れるベルリンの壁崩壊のニュースを見ながら、小学3年生だった僕に母がぽつりと言った。「時代が変わるねえ。いつかこれが歴史の教科書に出てくるから、おぼえておきなさい。」その言葉を、今でも妙に覚えている。
僕も息子が小学生になり、そろそろ、伝えるべきことがある、という気がしている。「読む」ことは、次の時代を生きる子どもたちのためにも、大切なことなんだろうと思う。
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