Essay
雨漏りと本(後編)
#82|文・藤田雅史
(前編はこちら)
さて、そんなわけで書庫に最大の危機が訪れようとしていた。
本棚の前に立って見上げる天井の壁紙は、雨漏りによって明らかに色が濃く変わっている。心なしか、部屋全体がなんとなく湿っぽい。鼻をひくつかせれば、雨の匂い、というか、雨によって濡れそぼった木や鉄骨や建築資材の匂いがする(ような気がする)。これからさらにまた数日雨が降り続き、雨水が屋内に染み込んできたら、いよいよこの本棚そのものが危ないのではないか。
真冬の悪天候の中で二千冊近くの本を室外に避難させることを考える。うーむ、それは嫌だなあ……。「なんとかせねば!」と自分に気合いを入れるよりも先に、あきらめて運を天に任せること、が選択肢として頭の片隅に上った。このまま水の底に沈んでもいいか……。そんなことを思う。映画『タイタニック』では、沈みゆく豪華客船の中でも音楽を奏でる演奏家たちの姿が印象的に描かれていた。そのシーンを思い出し、この部屋で本を読みながら水没していく自分を重ね合わせる。それもまた、ありなのかもしれない……。(雨漏りごときで死にたくはないが。)
実際問題、どこからどのように雨水が屋内に入り込んでいるのか特定できないので、素人では対処のしようがない。本を避難させるにしろ、最低限どのくらい移動させれば安全かもわからない。いっそ、ホームセンターで巨大なブルーシートでも買ってきて、本棚全体を覆うか。うーん……どうしよう。リスクの管理も対処もできないとき、人はもう祈るしかない。ビルダーさん、早く来て! 助けて!
で、正月休み明け、最初の月曜の朝、ビルダーさんが電気屋さんを連れてやってきた。
運を天に任せた結果、それまで本はひとまず無事だった。天井の染みは最初に見たときよりも大きくはならず、トイレ付近は相変わらず雨水が滴り続けていたものの、本棚の上から水が流れ落ちてくることはなかった。
「この部屋、本があるので、最悪の事態を考えて頭を抱えていました」
「そうですよね」
「休み明け早々、本当にありがとうございます」
「いえいえ。おそらく雨がその辺りから入って、こう壁伝いに流れてきて……」
プロは冷静だ。現場を見て雨漏りの箇所を推測し、さっそく原因の除去と応急処置をしてくれた。それで雨漏りは止まった。
ただ、ひとまず雨漏りが止まったのはいいけれど、屋内に侵入した雨水は配電盤まで到達していて、交換が必要だという。部品が入荷するまでにまず時間がかかり、安全に作業をするために、濡れた天井裏を乾かす時間もさらに必要とのこと。その上、電気屋さんはこの時期大忙しで、結局、書庫に明かりが戻ったのはそれから3週間後のことだった。
まだ真っ暗で暖房もつかない1月下旬の朝早く、電気屋さんが復旧工事のために来てくれるのを待ちながら、まだ約束の時間まで余裕があったのでその部屋で本を読んでみることにした。毎年買っている日本文藝家協会の『ベスト・エッセイ』シリーズ、2024年版を。
気温は摂氏1度。寒くて、暗くて、わびしくて、本を開いてもまったく読む気にならなかった。すぐに部屋から退散し、駐車場にとめてある車の中に逃げ込んだ。
寒いとじっとしているのがつらい。手がかじかむとページをめくれない。そもそも読む以前に、文字がよく見えなかった。寒くて暗くてわびしい場所で、人は本を読めない。本を読む、という行為は、恵まれた場所でしかできないことなのだと、そんな当たり前のことを正月早々、僕は今さらながらに思い知った。
蛍光灯やスタンドライトを知らない昔の人は、きっと、夜、本なんて読めなかったのではないか。白熱電球の時代がやって来るまで、囲炉裏の火、ろうそくや行燈、そういう頼りない明かりのそばでしか、書物を読むことはできなかった。それでも本を読みたい人は、冗談じゃなく歌にあるように蛍の光で読むとか、雪の夜の月明かりで読むとか、そんなことに挑戦していたのではないか。
読書というのは実は特権的なことなのである。いつでも好きなときに自由に本が読める、この時代、この場所に生まれたことを、とても幸運に感じた。そしてそれが昔の人たちが積み重ねてきた努力の成果であることに思い至る。それを無視してただ今を生きることを謳歌するだけの人生って、どうなんだろう。そんなことまで思ってしまった。
雨漏りが止まり、電気が戻った部屋は、明るく、暖かく、快適である。エアコンを点け、足元をガスファンヒーターで温め、ソファに横になって本をめくる。
ただの一冊の本が、大切な一冊の本に思える。
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BOOK INFORMATION
「本とともにある、なにげない日常」を、ちょっとしたユーモアで切り取る、本にまつわる脱力エッセイ『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』11月25日発売。>>詳しくはこちら
藤田雅史『ちょっと本屋に行ってくる。NEW EDITION』
issuance刊/定価1,760円(税込)